本当は白くなかった彫像たち
「美しさを捨て、醜い姿になりさえすれば。彫像の色を拭い去るように」〜古代ギリシャの詩人 エウリピデスの『トロイアの女』〜
まるまる、今回のタイトルにしたかったくらいだ。ここに全て、集約されてるからだ。
古代ギリシャ・ローマの彫像には、もともと、色が塗られていた。
私たちのよく知る白い姿は、経年により色抜けした姿なのだ。
※無論、全彫像がそうなのではないが。
左:紀元前5世紀のギリシャの神殿から出土
右:当時の見た目を解析&復元
コリントの墓の前に置かれたライオンの彫像は、紀元前6世紀には、黄土色の体にアズライトのたてがみだったと推測されている。
※リンク先は想定3D画像
ペインティングだけでなく。瞳の表現に宝石が使われたり、滴り落ちる血を表すために金属が使われたりしていた。
このように、古代ギリシャ・ローマの多色装飾の証拠は、数多く見つかっている。
技術の進歩により、数千年前の着色を識別したり、再現したりすることが可能になった。
以前は、検証方法が化学分析しかなかった。化学分析は、作品に損傷を与えるリスクがあった。今は、光とレーザーによる測定がある。損傷の危険性がないという。
再現性を高めるため、複元には、古代と同じ材料や技法が使われる。
色彩の復元という行為について、
「彫像の多色性を再構築する学者たちは、自分たちが検出した色の中で、最も彩度の高い色合いを選んでやしないか」
「白一色という認識をうち破るため、カラフルさを誇張してやしないか」
このような懸念の声もある。
『ニューヨーク・タイムズ』は現に、複元された彫刻について、「けばけばしく 安っぽい色使いや修飾 下品で幼稚」と酷評したことがある。
カラフル・バージョンになった途端、「英雄に見えない」などの意見も出た。白バージョンなら、誰からも出なかった感想だ。
ヨーロッパの学者たちは、ギリシャやローマの白くて裸体の彫像に関して、以下のように考えていた。
・造形の方をよっぽど重視して創っていた
・極彩色は悪趣味という価値観があった
なるほど?ヌードと無色は品がいいが、色とりどりの作品は下品だと?過去の話ではなく、それは、今の自分たちの気持ちではないかい?
一部の、ヨーロッパの(白人の)学者たちには、古代彫刻の「白さ」を評価する傾向がある/あった。
ドイツの美術史家に、「白ければ白いほど美しい」と言った人物もいた。
より全体的な話。
植民地時代に入ると。ギリシャ・ローマ美術の優位性を主張する論調は、西洋文明の優位性を主張する論調と、親和性をもつようになった。
願望は強まる一方だった。
色が残っている珍しい彫像が発見されると、一部の学者たちは、ギリシャやローマでなく別の文化の作品ではないかと言った。
ディーラーたちは、そのような彫像を入手すると、色が落ちるまでこすった。市場での価値が高まるからだ。
エジプトの暑く乾燥した気候は、色彩の鮮やかさを、大変よく保存した。
ギリシャ・ローマの作品の数々が色彩豊かだったことは、古代世界が多民族的であったことを表すことにも、通ずる。
とても重要な話なのだ。
ギリシャ・ローマ文明において、明るい肌色よりも暗い肌色の方が美しいとされていた、という説まである。
エキゾチックやオリエンタルといった、西洋世界からみる東洋世界を表す言葉の反対語は、オクシデンタルだ。西洋人からみる、西洋の、見た目や雰囲気や価値観。
知らないからこそ、知りたい。
自分と異なるからこそ、魅力的なのだ。
ちなみに。ラテン語の occidens(太陽が沈む場所)が語源だ。sol occidens は夕日。
自分たちを沈む側に設定している。東洋を日出る側だとしている。サンライズを渡している。
絵画を眺める主役側ーーのような、無意識的感覚があるとしても。なお、おもしろい。明らかなるポジティブネス、はじまりや再出発のイメージをゆずり渡しているのだから。