「飛ばない豚はただの豚」と言った実在の人物たち
今回は、平和や自由を求めて、暴力以外の方法で戦った人たちの話。
2019年に、メリーランド州のボルチモア美術館にて、『モンスターと神話:1930年代と1940年代のシュルレアリスムと戦争』という展示が催された。
サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、アンドレ・マッソン、パブロ・ピカソ、マーク・ロスコ、ドロテア・タニングなどの作品
が展示された。
リンクを追加した。(2024年2月)
一人一人の写真を貼る。
歴史上の著名人の人生を少しでも、リアルに想像できるように。私たちは生きている。彼ら彼女らも、当たり前だが、生きていたのだから。
ちなみに。マックス・エルンストとドロテア・タニングは夫婦だった。
第一次世界大戦(1914年~1918年)
ナチス・ドイツ(1933年~1945年)
第二次世界大戦(1939年~1945年)
彼ら彼女らの生きた時代は、こういう時代だった。彼らは経験し彼女らは目撃した。
それをイメージしやすいように。写真はわざと、老齢になってからのものを避けてみた。
シュルレアリスムの発展は、ダダイズムの直後に起きた。ダダイズムは戦争への反動であった。争いごとへの軽蔑を表現するために、ブラック・ユーモアを使用したもの。
※ダダイズムについても興味深い話がたくさんあるのだが。長くなるため、また別の機会に。
シュルレアリスムは、いわば、より内向きなもの。人の奥深くにある、暴力などの傾向を解明しようとするもの。
世界大戦中に、外部からもたらされた暴力と経験した内部の苦悩。その両方が描かれた作品。この展示には、そんな作品が集められた。
20世紀の欧米のシュルレアリスム・アーティストは、戦争や暴力や亡命の体験を描くために、怪物や神話上の生き物を用いた。
ヒトラーの台頭・ファシズムの蔓延・戦争の予感・内戦・第一次世界大戦・第二次世界大戦……現実世界の怪物が、芸術作品の怪物を生み出したのだ。
後半で詳しく書く。
『紅の豚』のポルコはお尋ね者だ。反国家非協力罪と退廃思想で、逮捕状が出ているとのこと。
物語の舞台は、第一次世界大戦後のイタリア。ムッソリーニのファシスト党による独裁政権。
ポルコを追う秘密警察のモデルは、さしづめ、反ファシズム監視抑圧機関といったところか。
原作『飛行艇時代』で。ポルコ(マルコ・パゴット中尉)は、自らのことをこう説明する。イタリア海軍退役パイロットで、今はバルカン諸国と契約をしている、空賊狩りの賞金稼ぎ。
当時のイタリアでは、急激なインフレが発生していた。ファシスト政権は、経済の立て直しのために、労働者を管理したがっていた。ポルコは個人で空賊狩りをやっている。しかも、国外から仕事を請けおっている。
マルコは戦争で多くの友人を失った。ジーナは複数回、未亡人になった。祖国のために働くたびに、仲間たちが次々に命をおとしていった。自分だけを遺してーー
以下、宮崎駿監督へのインタビュー記事より。
「もういっぱい経験してきた人たち。取り返しのつかないこともいっぱいもっている人たち。(中略)豚も自分の汚れが晴れて、やり直しがきいて、これでまっさらになったなんて思わないですね」
『紅の豚』は、まぎれもなく「中年」を描いた作品だ。 よく、哀愁漂うなどと表現されるが。弱さも負けも知っていることは強さに他ならない。
マルコがジーナと一緒にならない理由について。
ポルコはお尋ね者で危険だから・ジーナを巻きこみたくないからなど。彼が我慢をしたりあきらめたりしてそうしているという説が、よく語られるが。
私は、究極的には、それは違うと思っている。
監督が、マルコがなぜ自分に魔法をかけたのかを考える中で、ジーナというキャラクターは生まれたという。
マルコはジーナと物理的に男女として結ばれたくはないのだ。いろいろなことがあった。マルコにとって、この絵はこれで “完成” なのだ。今さら、実際に男女の仲になる?一部の男性にとって、それは本懐ではない。
一方、女は現実的だ。男のロマンだかなんだか知らないけれど、私から逃げないでと思う。現実の私に触れて、一緒にリアルな時を生きてと願う。それがジーナ(女性)だ。
ポルコは “ひとり” でいたいのだ。ひとりは必ずしも孤独ではない。互いを映しあい、突きぬけるように青くなったり・真っ赤に燃えたりする、空と海。そこを自由に飛べる豚。じゅうぶんどころか極上なのだ。
店にやってくる男たちの好意を受け流しながら(また別の愛し方で愛しながら)、ジーナは、本命の相手を待っている。3年待ってもプライベートな庭へはきてくれない。いくら夜の店に会いにきてくれても、彼女は仕事中だ。
以上、私の主観だが。
男と女とは夢と現実のことだ。私たちは永遠に「Someday の男」と「Today の女」だ。
「マルコありがとう。いつもそばにいてくれて
」2人はそもそも共に生きている。
パブロ・ピカソ『ミノタウロマキア』1935年
タイトルは、牛頭人身の怪物ミノトールと、闘牛を意味するタウロマキアをあわせた造語。
ピカソの母国スペインで、内戦が勃発する前年に、描かれた作品。展示会では「戦争の予感」というセクションに置かれた。
裸の女性・怯えた馬・威圧的なミノタウロスは、後の『ゲルニカ』(スペインの民間人が爆撃されたことへの、ピカソの猛烈な抗議)にも似ている。
亡くなった子どもを抱いて嘆き悲しむ母親・苦しげにいななく馬・床に倒れる兵士・握られた折れた剣と一輪の花・残りの手には聖痕のような傷・世界を照らす電球。
スペイン語の電球は「爆弾」に発音が近い。それに対して掲げられるランプの灯は、希望の象徴ともいわれている。
マックス・エルンスト 『雨上がりのヨーロッパ Ⅱ』1940~42年
ドイツ人のエルンストは、第一次世界大戦中、塹壕で戦ったことがある。その後は、祖国を否定するような思想や活動をしているという理由で、ナチスに逮捕された。そして逃亡。逃亡先のフランスでは不法滞在者だった。最終的には、米国に亡命した。
「雨上がり」は皮肉だろう。まるで洪水後のような光景。焼けただれたかのようにも見える。特に日本人には、そう見えやすい。
デカルコマニー(移し絵):絵具をおいた紙に別の紙を押しあてる技法。これが不穏な雰囲気のする流体を生んだ。
機械じかけのような雄牛・裸の女・鳥頭の男などがいる右側は、ヨーロッパ。そのようではないが岩だらけの左側は、アメリカ。
彼ら彼女らは、当然、アメリカも軍事的に関わっていることを理解していた。自分や家族の命のために、精神に折りあいをつけたのだろう。自分を恥じただろうか。かわいそうに。後ほど、ダリの話でより詳しく書く。
アンドレ・マッソン『闘牛』1937年
牛や馬がただの牛や馬ではなくメタファーであることは、もう説明不要だろう。
マッソンにはユダヤ人の妻子がいた。彼自身あらゆる “リスト” に載っていたこともあり、亡命を余儀なくされた。序盤に載せた地図の、数多の強制収容所を思い出してほしい。
ミノタウロス = 牛頭人身。闘牛 = 牛と人の闘い。牛と人の両方の要素をもちつつ、戦い続ける。自己の葛藤を表すようでもあり、また、内戦を表すようでもある。
『終わった世界はない』1942年
『約束のネバーランド』のように聞こえるタイトル。気のせいか、絵も似ている。
ネバーランド:全てが快適で完璧な架空の場所。現実にはあり得ない場所。
「ネバー・ネバーランド」という言いまわしは、ユートピア的な考え方をする人などに対して、否定的/説教的な意味で使われる。
ところが、実在する。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州は、かつて、「ネバー・ネバー」と呼ばれていた。
到底無理と思われていた荒地を住めるまでのものにするように。実在する → ネバーランドは自ら創り出すものなのだ。
サルバドール・ダリ『茹でた隠元豆のある柔らかい構造(内乱の予感)』1936年
ダリによると、「自己絞殺の錯乱の中で、互いに引き裂きあう巨大な人体が、腕と足の巨大な突出物に分裂する」様子。
サブ・タイトルに「予感」とあるが。この時すでに、スペインの内戦は勃発していた。スペインはダリの母国だ。
シュルレアリスム。超現実とはオーバー現実ではない。スーパー現実である。嘘のようなむごたらしいことが見学できるが、夢ではない。この世では、日々、ありえないはずのことが起こっている。
『怪物の発明』1936年
ヒトラー率いるドイツ軍がオーストリアを併合する1年前に、オーストリアで描かれたもの。当時の不安が伝わってくる。
炎に包まれるキリンと、水浴びをするケンタウロスに似た人間。
ダリと妻ガラの肖像(奥)。
ダリは、「青い犬だけは怪物ではない」と述べた。しかし、今にも消えてしまいそうだ。彼の自己反省を表すと、推測されている。
ドロテア・タニング『誕生日』1942年
これはタニングの自画像だ。謎の生き物を飼っている。ドアは無限に続いているが、開かれている。かなり派手な上着が着崩され、胸があらわになっている。スカートには枝がからんでいる。きっと、これが彼女のセクシュアリティーなのだろう。
タニングは、「私がシュルレアリスムの旗を掲げていると言わないでほしい」と表明した。まわりがシュルレアリスムに分類しただけで、彼女は慣例に挑戦し続けていたのだ。見せようとした扉の向こうは、家庭の内情か。あるいは、自分という女そのものかもしれない。
『憧れのギュスターヴのために』1974年
私はこの絵の雰囲気が好きだ。
深淵から現れる、人魚を連想するような姿。生物学的/カテゴリー的決定性に対する反抗ーーそんなモチーフかもしれない。タイトルにあるとおり、ギュスターヴ・ドレの『オセアニド』のオマージュだそう。
タニングの言葉に、一言一句、私が完全に同意するものがある。これだ。
「私は自分の無意識を育てる必要性を感じたことはありません。当時も今も。それはそこにあります。私の意識的な自己と錬金術的に融合し、私の個性を保証します。それらが噛みあい、連携して、私がどんな人間であるかをつくりあげます」
これらは全て、逃避的なアートにあらず。彼ら彼女らは、暴力以外の方法で、現実と向きあっていたのだ。戦争の真っ只中に生きるという、現実と。
現在、私たちは相も変わらず、独裁者・過激主義・暴力・強制移住などの脅威に満ちた世界に生きている。
そんな世界に対して。私たちはどう生きるか。
演奏者の息づかいが少しだけ聴こえる。その感じがむしろよかった。どんな作品の向こうにも、必ず人がいる。
〜恋の終わりを恐れるなら、さくらんぼの赤い実を愛してはいけない〜