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「私以外は誰もいない」日蝕と呼ばれた馬

Eclipse 日蝕。ラテン語源 Eclipsim が動詞で使用される際、他を陰らせる・他を凌駕するの意。

1769年5月3日。英国のエプソムダウンズ競馬場で、次のレースの結果を予想しあう人たち。その中の1人が言った。

Eclipse first, the rest nowhere. エクリプスが一着、残りはどこにもいない。

当時のルール:一着馬から240ヤード(219.5m)以上離された馬は入着を認められない。エクリプスという馬がデビュー戦でそのような勝ち方をする、と予想され発された言葉だった。そして、本当にそうなった。

『ウマ娘』。格言的に部屋にかかげているんだね。
私はこのアニメを知らない。これ以上わからない。

私以外私じゃないの。俺か、俺以外か。Eclipse first, the rest nowhere.

彼はサラブレッドではない。アフガンハウンド犬だ。

デビュー戦と書いたが。正しくは、デビュー初日で。エクリプスは第1レースにすでに勝っていた。アイルランド出身のギャンブラー、デニス・オケリーがしたのは、第2レースの予想だった。

オケリーは貧しい農家に生まれた。若い頃にロンドンへやってきて、ギャンブルで最初の金をつくり、次は詐欺師になってその金を増やした。悪運の強い男で、長期牢屋に入ったことはない。シャーロット・ヘイズ(当時、売春宿経営で成功した女性)と出会い、ビジネス・パートナーに。馬主になれるほど稼ぎ、競馬で儲けた。不動産でさらに資産を増やした。

前回書いたウラジミール・ナボコフの『ロリータ』に、スペル違いで同名の女性キャラクターが出てくる。この人物からとった名前だ。
『ロリータ』はこの画像を出した方がわかりやすかったか。スタンリー・キューブリックが映画化した。

ワルだったからではなく、おそらくは「生まれが悪い」ということで、馬関係の上流階級の集まりには入れなかったようだ。

会員には王子や公爵がいた。ジョッキー・クラブが結成された理由の1つに、貴族や要人がならず者と関わる心配をせずに楽しむためーーというのはあった。

残念だったね、オケリー。でも、メンバーになっていたら、おそろいの服とか着なきゃいけなかったんだよ。紋章バッジとかなら誇れるかもだけど。そういう感性、オケリーは笑っちゃうんじゃないかな。


血統ーー父が誰か・母が誰かが生涯の多くを左右する。何かに似ていないだろうか。

それでも。門が開けば、ひたすら前を目指して走るしかない。横のコイツを抜く。前のアイツを追いかける。

これは一体何なんだ?我々は何を競わされているのだ?……ふと、あたまをよぎるが。大きな歓声と高らかなファンファーレが、それもかき消していく。血が自分に告げてくる。走れ、走れと。

気づくまで、そう時間はかからない。何よりも、私自身が勝ちたいのだ。私が一番前だ。他は私より後ろにいろ。それだけだが……それが全てだ!

馬の気持ちをわかったように書くことが、これからもあると思う。あまり書くと個人情報的なアレが気になるが。私は馬のことを(競馬のことという意味ではなく)とてもよく知っている・ほとんどを経験している。「乗馬をたしなんだことがある」くらいでこんなこと言わない。もっと泥臭いーー成人男性がやることも特殊な職人がやることも、少女がやっていた。だから、エンリョせず書くところは書く。

正直言って、競馬のことが一番わからない。モンキー・スタイルも現役サラブレッドの速度も、私は経験していないのだから。ただ、馬が勝利を理解し・自らの勝利に喜ぶのは、よく知っている。


競馬の歴史を見ていこう。

競馬は、古代から世界中の文明で行われてきた。考古学的記録によると、古代ギリシャ・古代ローマ・バビロニア・シリア・アラビア・エジプトで行われていた。

古代ギリシャなどで、戦車競馬(チャリオット・レース)がとても人気だったことがあった。『ベン・ハー』の再現度はなかなか高いと言われている。

『ベン・ハー』

古代ローマのサーカスと言えば、公共の行事に使用された大規模な屋外会場のことである。森の中の戦いを再現するショーでは、サーカスに木々が植えられ。海上の戦いを再現するイベントでは、水がはられたという。

そこで、戦車競馬や競馬も行われた。語源のラテン語は円形という意味だが。野外会場サーカスは長方形に近かった。

Circo Massimo(チルコ・マッシモ)はローマ世界最大のサーカスで、15万人の観客を収容できた。ここで最も行われていたのは戦車競馬だった。最多で1年に135日、何かしらの競馬が行われていたようだ。

まわりには屋台のような店が並んでいた。

競技の勝者には賞金が出た。何度も優勝する競技者は人気者になった。競技者だけでなく、馬も有名や人気になった。戦車馬のオタクが出て、馬の追っかけ?をしていたという。


毎日、競馬でいいんだよ……。

そうでない日は可能性的に、殺戮ショーが行われるのだから。犯罪者や初期キリスト教徒が猛獣の前に立たされ。空腹の動物どおしが対面させられる。700匹のさまざまな動物たちを放ち、どうなるか見物しただとか。本当、イカれた発想してるよな。

303年、反抗的なキリスト教徒の増加を恐れた皇帝が、勅令を発した。会合の禁止・教会の破壊・聖書の焼却・聖職者の逮捕。監獄はキリスト教徒でいっぱいになり、処刑していった。ついでにこれを見世物にしよう!

こんなものを見て、よく精神が崩壊しないよな。
人間の火あぶりをトーチのようにしている。グロ。

キリスト教が国教になってから、このサーカスの利用はじょじょに減っていった。キリスト教徒の血を大量に吸っている土地だもんな。気まずかったんじゃあないの。知らんけど。最後のレースは549年に開催された。

一部は今でも公共イベントに使用され、残りは公園?広場?になっている。


とは言え、競馬も娯楽以上の意味をもつものだった。政治家らが、レースを利用して支持や影響力を得ていたのだ。

市民に対する施策「パンとサーカス」のサーカス(ここでは娯楽という意味)の1つとして建てられた、コロッセオも同様で。当時の皇帝は、ここで市民に娯楽を提供することで、自身の人気を高めようとしていた。

コロッセオの正式名称は「フラウィウス円形闘技場」だ。西暦80年に完成した。

『グラディエーター』などで見られるように。娯楽の中に競技があり、競技の中に「殺しあい」があるという感じだった(競技名はまんま「殺し合い」だった)。

人と人、猛獣と猛獣、人と猛獣の殺しあいだ。人は剣闘士と呼ばれた。剣闘士には奴隷や戦争捕虜が多かったが、志願してなる者(女性を含む)もいた。現代人がスポーツ観戦に行く感覚で、人々はそれを楽しんでいた。

戦車競馬の競技者にも奴隷は多くいた。何度も勝って賞金をためた者は、何より自由民としての身分を買っただろう。

ちなみに。「コロッセオ」の方が知名度は高いが、収容人数は5万人だった。いや、コロッセオもじゅうぶん巨大なのだが。


下の画像は、コンスタンティノープルの推測にもとづく復元イラストだ。競馬場のための都市か、くらい存在感があるのがわかるだろう。

また、古代ギリシャで言うヒッポドロームが、古代ローマで言うサーカスにあたる。ギリシャ語のヒッポス(馬)とドロモス(コース)から。

古代ローマのクアドリガ(古代ギリシャだとテトリッポス)とは、4頭平行引きのチャリオットのことで。これが最も定番の戦車競馬だった。

2~3世紀にコンスタンティノープルの競馬場内に設置されていたと推測されている、クアドリガ像。この子たちは、1980年代までヴェネツィアの寺院のファサードにいた。今は博物館にいる。そこまでもよくもったな。

寺院の屋根には今はレプリカがある。レプリカと言っても、ちゃんとした立派なものだ。

これは、ドイツのブランデンブルク門にあるクアドリガ像。この子たちは夜間ライトアップもカッコイイ。


エクリプスは「エプソム・ダウンズ競馬場」でデビューした。

現代のエプソム・ダウンズ競馬場。

次は、この競馬場の話をする。

英国の歴史の中で10年間だけ、共和政(国王がいない)だったことがあった。コモンウェルスと呼ばれた時期だ。1649年にピューリタン革命によって王政が倒されたため。1660年には王政復古したが。

コモンウェルス下では、競馬が禁止されていた。1661年にチャールズ2世出席のもと、エプソム・ダウンズで競馬が開催された。久しぶりの競馬だね!みなさん楽しんで!的な。

たとえばJRAさんの解説では、これがエプソム・ダウンズでの初の競馬開催だと。個人のブログじゃないのだから、公的記録以上の情報を書いているのもおかしい。それで妥当だ。

英国のある歴史書に、こんな話が書かれている。「1648年、イングランド内戦中。王党派の集会が競馬のふりをして開催された。カモフラージュに600頭の馬が集められた」ここからわかるのは、エプソム・ダウンズに多くの人と馬が集まるのは珍しいことではなかった、ということだ。600という数字のおかけで、規模感もだいたいつかめる。

エプソム・ダウンズの競馬の歴史は、おそらく1661年にはじまったのではない。少なくともその14年前だ。公的記録に残っていないだけで。

競馬は賭博だ。そもそもは、公的記録とセットで存在するような類のものではない。

騎士党 = 王党派
王党派とエプソム・ダウンズにはつながりがあった。チャールズ2世はエプソム・ダウンズで祭典を開いた。チェスター競馬場もドンカスター競馬場もあったのに。エプソムで。

競馬が英国で「貴族の遊び」と呼ばれるのは、近代的な競馬をはじめたのが貴族だったからだ。

王族も、競馬場や競走馬の生産を奨励していた。たとえば。アン女王はアスコット競馬場の創設者であり、チャールズ2世はジョッキーとしてレースに出たことがある(しかも優勝している。ヤラセでなければ笑)。

彼ら彼女らにとって、競馬場は社交場だった。

すっとんきょ……華やかなファッションで集まり、それを自慢しあうだけでなく。勝ち馬やレースの流れを予想しあうことで、互いの知識や洞察力を見せあっていた側面もあったと思われる。

そのように、男にも女にも楽しいものだったのだろう。エキサイティングな自己表現。私は、たとえお金が賭けることができなくとも、貴族たちは競馬をやっていたと思う。

現代のロイヤル・アスコットの観客たち。

完全なる余談だが。

大統領就任式でのメラニアさんのファッションが、ひかえめに言って、最高だった。

アメリカ人は大はしゃぎでネタとミームを投稿した。私も友人らとこの話で大はしゃぎしたが。

「V・フォー・ヴェンデッタじゃん」「よくも私の家を襲撃し(テスラ車がトランプタワー前で爆発した件)私の夫を暗殺しようとしたな🔥という装い」

「彼女の視界」
「オリンポスの頂点」
「なぜ妻が帽子をかぶってきたのかわかった瞬間」

1793年のタイムズ紙「エプソムへの道は、競馬場に急ぐあらゆる種類の人々で混雑していた。馬・馬車・ほこりまみれの歩行者がダウンズに群がり、人々は駆け下り、接触すると互いに押しあいへしあいしていた」

競馬の人気っぷりがよくわかる文献でもあるが、エプソム・ダウンズが丘陸地であることも伝わってくる。

現地レポートをしてくださっている方の動画があった。お借りする。こんなによい動画が高評価10しかないなんて、信じられない。

競馬会場にあった無数のテントでは、他さまざまなギャンブルが行われていた。流れで、賭け事の町という感じにでもなったのだろうか。この土地で、違法なボクシング試合も盛んになった。会場は前日まで秘密・関係者以外に口外禁止だったそう。ファイト・クラブみたいだ。

貴族と労働者階級がふれあいをもてる、いい機会でもあったらしい。日本の花見みたいだ。


ダーレー・アラビアン
ゴドルフィン・アラビアン
バイアリー・ターク

この3頭が英国にもちこまれ、英国産の牝馬と交配された結果生まれたのが、サラブレッド種の第一世代だ。

ダーレー・アラビアン
ゴドルフィン・アラビアン
バイアリー・ターク

名前の前半は所有者の名前。つまり、2頭はアラブ馬だったと。「ターク」もアラブ馬だったのだろうと言われている(後で書く)。

推定1700年生まれのダーレー・アラビアンは、アレッポ(シリアの都市)に駐在していた英領事がアラブの族長から買った馬だったそうだ。そして、本国へ輸送したと。

※イメージ

特徴的な顔のカーブ・大きな目・しっぽの高さ。
鼻筋は呼吸の効率のためにくぼんでいるんだ。

遠い昔、アラビア半島の砂漠地帯で。現代のアラブ人の文化的先駆者であるベドウィンの、家族でありビジネス・パートナーであり戦力であったのが、馬とラクダだ。

『アラビアのロレンス』の中のベドウィン。

この動画は、アフリカのダナキル砂漠のものだが。キャラバン貿易の参考として。

サラブレッドの血には、過酷な環境を生きぬく強さが含まれているんだな。


ベドウィンはパレスチナ人の一部でもある。

2012年の記事。

シリアの「アラブ馬の夜」も、明けるといいね……。

言語やお金もそうだが。馬も、人間と一緒に動き運命をともにする。


ダーレー・アラビアンから数えて5代目。1764年にエクリプスが誕生した。嘘か誠か、日蝕とともに産まれたと。

エクリプス
5代目、目元にアラブ馬っぽさが残っている。

サラブレッドの「成立」は1790年頃とされているため、エクリプスはサラブレッドとは呼ばれていなかったはず。

エクリプスは、相当気性が荒かったという。一旦馬装をしたら、なかなかとけなかったと。鞍を外してやる気がなくなるのだろう。すぐに首をふり上げたり、立ち上がったりしていれば。じゃあもういい・好きにしていなさい、となるのはわかる。

こんなことするの?しない。笑
私はこんなことをする馬を見たことがない。

本当に「特別な子」😂だと思う。まじめな話、こんな稀有な個体はもう二度と現れないのではないか。

「一例」と前置きするが。気性が荒い馬は、イラついていた時に八つ当たりにちょうどいい高さにあったからーーとでも言うように、子どもの頭にかみつく。賢い彼女は、その子がヘルメットをしていたから、やったのだと思う(死にやしないと)。そういう賢さにさらにゾッとする。私も、事態を把握して目視で確認するまで、左肩をえぐられたのではないかと思うほどかまれたことがある。衝撃で倒れ立ち上がりたいのに、天地がわからなかった。それらは別の馬だ。数えきれないくらいした落馬で、こんな大ケガをしたことはない。

気性が荒い(はたから見たまとめ)・猛獣(対峙する者の感覚)。

馬は大変賢く・個々に性格が異なり・やることなすことおもしろいのもいて・特定の人間に愛着を示し(好き嫌いを見せ)・懸命に競技に挑む個体も多い。が、そういうこともする。


エクリプスがレースに出ていたのは、5才~7才の間だった。18戦18勝。非公式のレースを含めると26戦26勝。諸説あるが。無敗なのは確実だろう。

エクリプスに勝った馬がいたならば。その馬の生産者と馬主と調教師が、それをあえて黙っていたはずがない。騎手もだ。

同じ年に英国で生まれた馬が13戦13勝で、かなり強かったらしいが。エクリプスとは対決していない。無敗でいたくて、この馬サイドがエクリプスの出るレースを避けていたのかもね。私が関係者ならそうするよ。

競争相手がいなくなり、エクリプスは引退した。ライバル馬に賭ける者が誰もいなくなってしまい、レースが成り立たなくなったのだと。彼は種牡馬になった。


元祖3頭の、バイアリー・タークの話をする。

バイアリー・タークの出生については諸説あり、真実はわかっていない。

彼は戦場にいた説。

戦馬の追悼モニュメント。
バイアリー・タークには直接関係ない。

1688年のブダペストで。ウィリアム3世(この直後、オランダ提督からイングランド国王になった)率いる軍隊が、オスマン帝国と戦った。騎兵隊にロバート・バイアリー大尉がいた。

ブダペストの教会。オスマン帝国の影響が見られる。

バイアリーはオスマン帝国側の馬を1頭うばった。とてもよい馬(見た目的にアラブ馬だった)で手に入れたくなり。大尉の軍馬として、バイアリー・タークはもう1つ戦場を経験した。馬のおかげもあり、大尉は大佐になった。

サラブレッドには、勇敢な軍馬の血も受け継がれているのかもしれない。


このこと(以下参照)をどう思いますか、という問いかけに対して。

海外のやりとりを日本語にしたもの。

詳しい人が出てきて解説する。こういうキーワードで必ず現れる有名回答者らしい。ダーレー・アラビアンによる9割占有など起こっていないと。バイアリー・タークの影響を語る。

専門家と専門家(最強オタクは専門家だよね)で意見がわれていることなど、私にわかるわけがない。


小ネタ。

エクリプスの息子の1頭は、ポトゥーーーーという名前だった。

生まれた時はポテトと名づけられたのに。読み書きのできない調教師が馬房に「pot 〇〇〇〇〇〇〇〇 と書き、それが定着したと。読み書き云々じゃないだろう。ポテトという音のスペルがその長さな可能性があるのか、と。普通の想像力で察して?かわいい。

常に、探される迷子のように呼ばれていたのだろうか。「ポトゥーーーー」「ポトゥーーーー」ポトゥーーーーはそれを聞いて、自分だ!と思っていたのだろう。ポトゥでは反応しなかった可能性がある。かわいい。


小ネタ。

エクリプスの遺骨から、気づけば、ひづめが盗まれていた。

犯人、これまでの関係者の中にいるのでは??

これフリーサイズだから着たらいい。

ヴィクトリア朝時代の人々は、亡くなった名馬のひづめをインク壺や燭台にしていた。現代のレース愛好家の中にも、同じことをする者がいるようだ。

エクリプスのものとされるひづめインク壺が、世に5つ出まわった。彼が速く走れた理由がわかった。なるほど、脚が1本多かったのか。そりゃあ速いに決まっている。


冗談はさておき。

エクリプスの強さの理由を探し求める人たちは、彼の死後、解剖し・骨格標本を残し・コンピューター解析した。

エクリプスの骨は王位獣医大学が管理している。

首長め。膝下短い。バランスのよい見た目だったとは言いがたい。

馬が速く走るのに重要な能力は、シンプルに、脚を素早く前に出す能力だが。四肢が長い大型動物にとって、これは簡単なことではないと。エクリプスの特徴ーー言うならば短足ーーは、悪くないものだったのだ。

エクリプスの走り方を「路上で小銭を探しているかのよう」と表現した人がいた。なんだか意地悪な言い方だね。長い首を下げて疾走するくせがあったという。

ある学者は、「競走馬の最も美しい特質はその疾走の速さである。最も速く走る馬が最も美しいとみなされる」とまとめた。もちろん、この「美の法則」は、レースの種類や馬の仕事/役割に応じて異なるが。見栄えがどうであれ、エクリプスは実力者だった。というのが主旨だ。

5才まで競馬のキャリアをスタートさせなかったことは、強さの秘訣に関係あるのだろうか。当時としては異例のことだったが、かと言って、ここからも大したことはわからない。

エクリプスの死後、(解剖を経て)はじめてわかったこと。彼の心臓は大きかった。馬の心臓の重さは平均10ポンド。エクリプスの心臓の重さは13ポンド。

今までなんらかの理由で死後に解剖が行われた馬たちの中に、14ポンド・18ポンドの心臓をもつサラブレッドもいた。彼らは、いずれも輝かしい成績をおさめていた。巨大なポンプが速く走れる理由なのではないかーーと考えられた。

コンピューター上にエクリプスが復元された。

研究者らは理論上の四肢が走るのを見つめながら、競走馬全体のことを考えた。疾走中80%の時間、各脚が地面から離れているのに、馬がバランスを保てる理由。馬の最高疾走速度を制限する要因は何か。といった疑問に対する答えをテストしていった。


日本の競馬の距離。

日本だけではない。現代のレースは世界的にこのくらいの距離だ。

「アスコット・ゴールド・カップは約4000mの伝統ある長距離戦」「リバプールの競馬場で毎年行われるグランド・ナショナルは、30回の障害飛越を含む約7000mのコース。完走するだけでも困難で、完走馬は一桁ということも」「モンゴル・ダービー。モンゴルの大草原に設定された1000kmのコースで1週間かけて完走を目指す。世界最長の競馬」などとあるのだから、世界的に同じ感覚だ。

当時のレースはもっと長かった。

エクリプスの出走記録より。

4マイル = 6437mだ。これが当時の標準的な距離だった。ヒートは4マイル1レースを複数回だ。

エクリプスは出場しなかったが、10kmや11kmのレースもあった。それ以上もあった。1マイルの競走としてはじまった英ダービーは、当時の感覚では、驚くべき短距離レースだった。


He won 18 races and usually by 10 or 20 furlongs. は?サラッとヤバいことが書いてあり、のけぞる。1furlong = 201m だよ。本当かよと疑う。

いちゃもんをつけてごめん、王位獣医大学(エクリプスの骨を保管している大学)。

何か、考えてみなければ。4マイル × 複数回などというものをやれる馬は、そもそも少なく。ヒートの2走目や3走目では、他馬はまともに走れなくなっていて。エクリプスだけが普通に近く走っていた。……これでどうだろうか。まだ、あーねと思えてくる。

脚も速いが心臓も強い説を補強するし。


ここまで書いてきて。結局わからないことはわからないんだよな、というのが再確認できた。

冒頭でも書いたとおり。4マイル中に3つのチェック・ポイントがあり、そこで先頭の馬と2番以降が220m離れていたら、他は全て失格だった。

1着は〇〇・2着は△△という結果なら(出場馬にエクリプスがいなかったら)、名を残せたであろう馬たちも。エクリプスの到来で記録に載らず、競走馬の歴史の闇に消えていったことになる。

4マイルやそのヒートなどというものを走れていたのだから、じゅうぶんに強い馬たちだったのだと思う。

勝負の世界、厳しい。


遠く光の中にいるのはアイツだけ。人間から「日蝕」と呼ばれている、アイツだけーー。