可能なるコモンウェルス〈31〉

 いわゆる社会契約と呼ばれている考えについて、その「根本」には、あるいは「現実」として、たとえばホッブズが言うところの「獲得されたコモンウェルス」として区分される側面が、実際に一定の人間集団あるいは人間共同体の実態的形相としてあらわれているものだと見て、おそらく差し支えはないのだと思われる。具体的に言うとこの、社会契約理論の根本的・現実的側面の実態的形相とは、要するに「国家」の形をとってこの世界にあらわれてくるものだ、ということである。
 だが「一般的」には、むしろもう一方の「設立されたコモンウェルス」を念頭において、社会契約なる概念が考えられることとなるのが常なのであり、かつその前提の下で社会契約の思想は理論化されることとなるわけである(※1)。さらにはそれがまた、「個々人が国家(主権者)を形成する」(※2)という意味合いにおいて構想された「人民主権という理念」に対して、一定の根拠を与えるものとなっている側面もたしかにあるのだと言わざるをえない。
 この文脈の下では、「国家は、ある特定の者=君主に対して一方的に利することなく、むしろ万人のために存在し機能するべきものである」という断定的な「理念」が、社会契約思想を理論的に筋立てる前提として、その根底に鎮座している。それゆえに「設立されたコモンウェルス」は、「獲得されたコモンウェルス」に対して理念もしくは理想として優位に立ちうるのだというように、「一般的」には信じられているわけなのである。

 ところで、「設立されたコモンウェルス」の意味合いで考えられた社会契約概念とは、実は「個々人から出発するアトミズムの考え方」(※3)にもとづいている。そしてその出所は、「市民社会成立以後の発想」として浮かび上がってきた観念なのだと規定することができる。つまりここでも、結果的に出来上がってしまった現状を根拠づけるために、「いにしえの夢」が引っ張り出されてきている、というわけだ。
 ここでひとまず、「一般的な見方における社会契約」と、それにもとづいて構想された「人民主権」の概念の、その概要についてあらためて見てみよう。
 社会契約という考え方は、国家をその成員共通の利益を配慮するためにルールを形成する共同体と見なすことによって成立しているものである。その共同体の内部において取り交わされる「契約」という行為においては、個々の人間が帰属する民族や宗教などといった違いは乗り越えられ、人々は「同じように存在する個人=アトム」に置き換えられた上で、「われわれ」という一つの共同性を獲得しつつ、その「われわれ」が一体となり一つの人間集団=共同体=国家へと結合する。そしてこの、「われわれ」という一つの共同性にもとづいて、「われわれは一個の人格」として、その「われわれ=人民が形成する国家の主権者」となるわけである(※4)。
 一方でそのように、「同じような個人=アトム」として個々個別の違いが乗り越えられた集団=社会=共同体は、「かつての村落共同体とは異なり、それぞれが何処の何者であるかがよくわからない、というより、それを殊更に問われることのない、『匿名社会』として成立」(※5)しているものである。その人間集団は、「誰が何処の何某であるかが生まれながらに決定されている村落共同体」を離れて、そのように「何処の誰であるかわからない、あるいは何処の誰でもない者」たちが、自ら自発的・主体的に結合することによって形成されている。そして、それこそがまさしく、「市民社会」なのである。逆説的に言えば、そのように「何処の誰であるかわからないから、あるいは何処の誰でもないから」こそ、その者ら自身は互いに互いを、「同じような個人」として認識し関係し合うことができるところとなるのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 柄谷行人「世界共和国へ」
※2 柄谷行人「世界共和国へ」
※3 柄谷行人「世界共和国へ」
※4 西研「ヘーゲル・大人のなりかた」
※5 岡田憲治「はじめてのデモクラシー講義」

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