労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈24〉
フロムは「労働の他にすることがない人間たち」の、その実際するべきことの何もない「自由な時間」について、次のように考察している。
「…われわれは、平均労働時間を、一世紀前の約半分までにへらした。今日、われわれは、祖先たちが、夢にも見なかったほどの自由な時間をもっている。だが、それでどうなったのか。われわれは、新たに獲得した自由な時間の使用法を知らない。せっかく節約した時間をむだにつぶそうとし、一日が終われば、ほっとする。…」(※1)
そのような「自由な時間」は、彼らにとってはただ「無駄に潰すためだけにある」ようなものであり、むしろそれは「働くことができない時間であるのにすぎない」ものであるかのようにさえ思えてくる。
さらにフロムは、「資本主義の経済的発展に伴い、近代的な意味での時間観念が発達し始めた、一分一分が価値あるものになった。休日が多すぎることは一つの不幸と思われるようになり、時間は非常に貴重なものとなっていった。人々はつまらないことに時間を浪費してはならないと考えるようになった」(※2)と、産業社会に生きる近代人たちの心理を分析している。
いくらかの短い時間であっても、働いてさえいればそれなりにいくらかの賃金が手に入る。「時間がカネになる」ということを人々が知るようになってからというもの、「カネにならない時間」は無駄や浪費であるばかりでなく、もはや「時間でさえない」ようなものと見なされることとなった。そしてそのような「時間でさえない時間を過ごす者」は、「何もしていないのと同様だ」と見なされることにもなるのである。休日でさえそうなのだから、失業となればなおさらのことだろう。
「労働すること」しかできない労働機械=労働力商品である労働者たち。その失業期間は彼らにとって、「物質的損失と同じくらいか、それ以上に強いられた『休息』のために苦しむ実例が多い」(※3)ともフロムは言っている。
労働することしか他にすることのない労働者たちにとっては、結局のところその失業期間とはただ単に「労働していないだけ」だと見なされるものとなる。そして労働者が「労働していない限り」は、彼らは「人として何もしていない」ものと見なされることにもなる。つまり「失業者=労働していない人間は、何もしていない人間」ということになるわけである。
それを逆に見れば、「労働している人間」の方でもその期間中は、ただ単に「労働しかしていない人間」なのであり、そこで彼らが「労働しなくなる」あるいは「労働できなくなる」とすれば、彼らは「労働すること以外には何もできない人間」として、結果的に「何もできない人間」あるいは「何もない人間」になってしまうのだ。
イヴァン・イリッチも、労働することしかできない人間の失業状態について、このように指摘している。
「…何もしないでいるということは悪だと信じている人にとって、失業ということはその人が、悲しまなければならないほど怠惰なことなのである。…」(※4)
ついに「何もすることがないということは、ただそれだけで悪なのだ」とまで言われてしまう。何もしないということは、ただ単に何もしていないということではなく、「それ自体が悲しまなければならないほどの怠惰なのであるという、独自の意味」を持つに到るのだということになってしまう。「何かをすることによって生み出されたものが価値になる」というのではなく、「価値となるものを生み出すために何かをする」ことこそが、一般的な人間に課せられた正統な活動なのだとされているような「現代社会」においては、「何かをすることとは全て価値を生み出すものでなければならない」のであり、そうでない活動のいっさいは、ただ価値がないばかりでなく、あるいは何もないばかりではなく、もはやそれだけで「無価値という独自の意味」を持ってしまうことだとさえ見なされてしまう。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 フロム「正気の社会」加藤・佐瀬訳
※2 フロム「自由からの逃走」
※3 フロム「正気の社会」
※4 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳