可能なるコモンウェルス〈28〉

 ブルジョア階級が政治的ヘゲモニーに対して何らかの意志や意欲を示すのは、彼らの経済的ヘゲモニーが何らかの形で「政治的に侵害される場合」に限られる。端的に言えば「政治に経済が邪魔をされる場合」にこそ、彼らブルジョア階級は「政治的に反応する」のである。そこではじめて彼らブルジョア階級は、彼ら自身の手と「力」によって政治的なヘゲモニーの掌握を目指し、その力を用いることで彼ら自身の「経済上の目的」から、いかなる政治的な侵害をも排除しようとするのだ。そしてまさしく「それだけ」が、彼らブルジョア階級にとっては政治上目的となるものなのである。
 一方、自身によって政治的ヘゲモニーを独占掌握することに何らかの執着を覚える者たちというのは、むしろそのように「自分自身が権力を独占していること以外に、自らの立場を代表するものがないような階級」だと言える。そしてそのような者たちにとって「ネーション」こそは、彼ら自身のみならず、彼らが内属する一定の領域、すなわち国家「内部の、全ての人々の立場を丸ごと代表するもの」として見出される表象に他ならない。実際そのようなものもやはり、「誰も反発のしようがないもの」ではあるのだ。

 すでに議論してきたことに関連するのだが、ブルジョア階級は彼ら自身が政治的ヘゲモニーを掌握して敢行した市民革命と、およびそれによって成立した人民主権国家において、しかしそれまで引き続いてきた社会に生じていた「階級対立を廃棄することをしなかった」のだ、とマルクスも言っている(※1)。とはいえむしろそのように、人々が内属する一定の領域、すなわち国家あるいは社会の、その「内部」において生じた諸階級間における対立、そしてその背景にある「階級的な外部性」を隠蔽してきたのは、実際それまで引き続いてきた「中世までの」社会だったのではなかっただろうか?
 「階級」は、それまでの社会においては「身分」として固定され、動かし難いものであるように考えられていた。そしてそのように、内属する人々の「間に生じていた区分」を、その帰属する一定領域「内部」において完結しているものとして、実際その領域に帰属している人々に対して見せていたのが、まさしくそれまでの「社会」なのであった。それを踏まえて考えるとブルジョア階級というのは、やはりたしかに彼らなりの仕方で「階級を廃棄しようとしていた」とは考えられないだろうか?
 ブルジョア階級とはそもそも、旧来の「身分的なくくり」の中から出てきたものではない。彼らは、むしろそういった「血縁・地縁的紐帯」を自ら捨てて、その帰属していた一定領域から飛び出していった、「何処の何者でもないがゆえに、何処ででも何者にでもなれる、自由な個人」だったのである。そんな彼らが、「旧来からある身分的くくりの外部」において、彼ら自身の「階級」を、「彼ら自身の意志と主体性」をもって形成していったわけなのだ。
 そんな彼らブルジョア階級が、やがて社会的・経済的・政治的に、その「力」を増していくこととなる。彼らが「自らの意志と主体性」によって、そのような「社会的・経済的・政治的ヘゲモニー掌握」のプロセスを辿る中で、それまでそういったヘゲモニーの掌握を限定していた「身分的内部性」を、その過程で同時に解体していった。そんなブルジョア階級は、彼ら自身がまさにそうであったように、「何者でもないがゆえに何者にでもなれる世界へ、全ての者たちを誘い入れようとする」ものなのである。彼らブルジョア階級の武器である「経済」は、そのような誘い文句で人々を呼び込むのに絶好で最適なアイテムであるのだから。
 そして、彼らブルジョア階級の企てが首尾よく成功を収め、その世界の内部において「全ての人々が、一つの同じ階級となる」ことが叶ったあかつきには、「自階級への帰属と忠誠という内部性」も「他階級への反発と対立という外部性」も、もはや解消されうるものとは考えられないだろうか?ある意味ではそれこそが、彼らブルジョア階級にとっての「階級闘争」だったのではなかったか?そしてそれはまた、「プロレタリア階級による階級闘争」にも引き継がれているものだとは言えないだろうか?

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 マルクス「共産党宣言」

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