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「人生が楽しくなる気持ちのいい日本語」 萩本欽一

「気持ちのいい日本語で会話するって、とっても気持ちのいいことだよ。」



「人生が楽しくなる気持ちのいい日本語」 萩本欽一



僕が小学生のとき、テレビのお笑い番組と言えばドリフターズと欽ちゃんの番組でした。


とくに欽ちゃんは、一週間見ない日がないというほど、毎日顔を見てました。


ハガキを読みながら、お茶の間とテレビの間(はざま)をなくしたコントは、ラジオっぽいテレビ番組で、楽しさと親しみがありました。


番組からはたくさんのスターも出ましたよね。


国民的愛されるタレントの萩本欽一さん。


あったかい芸風で、家族みんなで笑いながら見てた欽ちゃんの番組が、懐か
しく思い出されます。


欽ちゃんが会話や日本語について、語ったこの本。芸能生活のウラ話や、
苦労したお話も出てきます。(結婚の話はドラマのようでした)


言葉を大切にして、会話を楽しく感じさせる欽ちゃん式会話の真髄を学ばせていただきました。


独特の欽ちゃんの語り口がそのまま活字になっているので、目の前で欽ちゃんが語りかけているようです。


欽ちゃんの考え方には、凡人の僕には到底及ばないと感じながら、もしも欽ちゃんといっしょに仕事をするとしたら、いろんな意味で大変だなぁとも思いました。


それほど言葉や会話・芸に厳しいのです。


まず、はじめに欽ちゃん言葉が生まれた理由が語られています。


「なんでそうなるの!」

「ダメだよ~~!」


など


昔のお笑い番組では、テレビのスポンサーがつかなかったようですね。


欽ちゃんが出ていた当時の舞台では、鋭いツッコミを入れてたそうです。


鋭いツッコミは、余計にイメージが悪くなると考えた欽ちゃん。


語尾に「よ」とか「の」とかを付けることで、キツイ言葉を緩和させようと考えたのです。


そうしていると、お笑い番組にスポンサーがついてきたそうです。


今のようにゴールデンでお笑い番組があるのは、欽ちゃん言葉があったからかもしれませんね。


ためになった言葉の話がこれ。


イヤな言葉を受け流すと、立場が逆転する


初対面で挨拶をした欽ちゃんに…


「オレ、欽ちゃんのこと、好きじゃないんだよな~」ってストレートパンチ。だけど、僕は打ち返さない。ムキにもならない。

「はい。わかりました。納得ですよ~」って。

「なんかさぁ。誰にでも好かれようとする生き方って、オレはイヤだね」たとえ、2発目のパンチが飛んできても、ペースを変えない。

「はーい。そういう方が、ひとりくらいはいたほうがいいと思いますよ。大丈夫ですよ~」とか言うだけ。

そうすると、3発目のパンチはこない。


このとき2発もパンチを出した人って、言ったことに後悔してるんですって。「言い過ぎた」って。


そうすると、次に、本当はこういうことを言うような人間じゃないんだ
って見せようとするそうです。


「それにしても、欽ちゃんの人気はすごいね。たいしたもんだ」


っていう具合に。


イヤな言葉って、そのまま受け入れられちゃうと、言われたほうじゃなて、言ったほうにイヤな気持ちが残るの。

だから、なんとかして、自分の中に残っているダメージをなくしたいと思うようになる。


とっても良い話がありました。


欽ちゃんの子ども時代は、とても貧しかったそうです。


学生の頃はいろんなアルバイトをしてたそうですが、飲食店の出前のアルバイトをしてた時のことです。


ある日出前をして、店に戻る途中の信号待ちをしてたら…


「おまえ、何しやがんだ!」


と、おじさんが顔を真っ赤にして近づいてきます!


「なんですかじゃねぇだろ。ココをみてみろ!」


おじさんのピカピカの新車に、ながーいひっかき傷がはいっていたんです。たぶん荷台のアルミ箱がひっかかってついた傷なのでしょう。


そこで、しばらく押し問答。「店の名前を言え!」と欽ちゃんにおじさんは凄んで言います。


欽ちゃんは


「おじさん、ボクはアルバイトなの。1日230円。店のおじさん、いい人だから、ボクのかわりに払ってくれると思うけど、小さな店だし、そんな大金を払ったら、大変なことになっちゃうよ。だから、店の名前は言えないよ」

(中略)

「おじさん、ボクをおじさんの会社まで連れていって、その分だけ、働かせるのが一番いい方法だと思うんだよ。どれだけでも働くからさ。おじさんの車のあとを自転車で追っかけてついて行くからさ」


そのあとのおじさんの言葉がいいのです。


その言葉が


「キミの言ってることが正しいな。ボクの言ってることは間違ってた」

「オレもキミみたいにアルバイトをして、頑張った頃があって、今、車を買えるようになったんだ。そのことを思い出した。学校を卒業したら、オレの会社においで。ごめんな……」


「ぼくが間違ってた」って言える人は、カッコいいですよね。


そのあと欽ちゃんは、テレビに出るようになって恩返しがしたくて、この話をずっとしていたそうです。


しかし


おじさんからの連絡はありませんでした。


昭和62年、欽ちゃんがテレビをやめようとしたときに、おじさんから手紙がきたのです。


『テレビや雑誌でアナタが私のことを言ってくれていることは知っていました。でも、アナタが一生懸命に働いているときに、名乗り出るのはイヤでした。

アナタがお休みをすると聞いたので、手紙を書きました。ゆっくりと休んでください」

すっごいでかい会社の社長さんだった。



【出典】

「人生が楽しくなる気持ちのいい日本語」 萩本欽一   ゴマブックス


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