「カンガルー日和」 村上春樹
「ねえ、あの袋の中に入るって素敵だと思わない?」
「カンガルー日和」 村上春樹
何気にテレビを見ていると、カンガルーが映し出されました。
愛媛県のとべ動物園でのこと。
カンガルーの赤ちゃんが、おかあさんの袋から落ちていたのを飼育員さんが発見しました。その飼育員さんがカンガルーの赤ちゃんを保護し、手づくりのリュックサックの袋に入れ、人工保育しているというニュースでした。
飼育員さんがさげて歩いているリュックサックから、カンガルーの赤ちゃんは顔を出していました。とても愛らしく指吸いもしていました。愛情深く保護されていました。
そのカンガルーの赤ちゃんを見て、頭に浮かんだ光景がありました。
村上春樹さんの短編集「カンガルー日和」に出てきた若い男女が、カンガルーの柵の前でカンガルーを見ている光景です。
この話は2人の男女が、カンガルーの柵の前で会話しているだけの話なんですが、2人がするカンガルーの会話と、カンガルーが保護されている映像が相まって、村上春樹さんの「カンガルー日和」へとつながったのです。
☆
その若い男女が動物園にカンガルーの赤ん坊を見に行くまでに、1ヵ月の時を要しました。
2人は、1ヵ月前に新聞の地方版でカンガルーの赤ん坊の誕生を知りました。
それから
カンガルーの赤ん坊を見物するのに相応しい、朝の到来を待ち続けました。
しかし
その日はなかなかやってきませんでした。
雨が降ったり、嫌な風が吹いたり、彼女の虫歯が痛んだり、彼が区役所に出かけねばならなかったりしました。
そしてようやく
カンガルーの赤ん坊を見物するのに相応しい「カンガルー日和」がやってきたのです。
彼女は、カンガルーの赤ちゃんが生きているのか心配でした。
また
今日のこの機会(カンガルー日和)を逃すと、もう二度とカンガルーの赤ちゃんを見れない気がすると彼女は言うのです。
どうしてそんなにカンガルーの赤ちゃんにだけ固執するのか? と彼は、彼女に訊ねます。
「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と彼女は言った。
動物園に着くと、カンガルーの赤ちゃんは新聞で見た写真よりずっと大きくなっていて、元気に駆け回っていました。
彼女はカンガルーの赤ちゃんが意外に大きくなってしまっていて、もう赤ちゃんではなく、母親の袋の中に入っていないことにがっかりします。
2人は、赤ちゃんの母親を探しました。
が、すぐには見つかりません。
先に、巨大で物静かな赤ん坊の父親の方を見つけました。
彼は才能が枯れ尽きてしまった作曲家のような顔つきで餌箱の中の緑の葉をじっと眺めている。
そして
同じような体つき、色、顔つきの雌が二匹いました。
「でも、どちらかが母親で、どちらかが母親じゃないんだ」と僕は言った。
おとうさんカンガルーとおかあさんカンガルー。もう一匹のミステリアスな雌カンガルー。1匹の雄と2匹の雌によるカンガルーの関係性。「カンガルーの赤ちゃんが袋に入るか入らないか」という彼女の異様に固執する彼との会話。「カンガルー日和」までの1ヵ月の期間。とても不思議な空気感です。
「ねえ、あの袋の中に入るって素敵だと思わない?」
「そうだね」
「ドラえもんのポケットって胎内回帰願望なのかしら?」
「どうかな」
「きっとそうよ」
彼は、ホットドッグとコーラを買いに行きました。
柵の前に戻ってくると
「ほら、見て、袋の中に入ったわよ」
と彼女が言いました。
そして
「保護されているのね?」
と彼女は、彼に言いました。
袋に入って保護されているのがわかった彼女は、安心したのでしょうか
「ねえ、ビールでも飲まない?」と彼女は言った。
「いいね」と僕は言った。
【出典】
「カンガルー日和」 村上春樹 講談社
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