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「赤と青とエスキース」 青山美智子


「堂々としていればいいんだ。俺はレイの気高い生命力を知っているよ」




「赤と青とエスキース」 青山美智子


壁にかかった一枚の絵の前に、
わたしは立つ。
その絵は、多くを語りだす。
わたしだけにわかる言葉で。
わたしは愛しいその姿と向き合い、
ほほえみかける。
ああ、いい絵だ。



この言葉は「赤と青とエスキース」プロローグの言葉です。


誰が言ったのか? 何を意味しているのか? 最初に読むとまったくわかりませんが、プロローグのこの言葉により、期待がどんどん膨らんでいくのがわかりました。急速にこの物語に誘われました。


エピローグ


最後まで物語が運ばれたとき、冒頭の言葉の意味がすべてわかりました。


そして、こう思いました。


「ああ、いい本だった」と。


プロローグのこの言葉と、エピローグの最後の言葉は、ほんの数十文字ちがうだけです。


ほぼ同じでしたが、この数十文字により、この本の「すべて」を感知させられるのです。すべての読者にわかる言葉で。


ああ、いい本だったと。

 
          ◇


レイは大学の交換留学で、オーストラリアのメルボルンに来て1ヵ月が経っていましたが、友達の一人もできませんでした。レイは孤独でした。


そんなことを知ってか知らずか、彼女はアルバイト先の先輩・ユリさんに、仲間たちと行うバーベキューに誘われます。


別にレイは友達をつくりたいとは思わず、乗り気ではありませんでしたが、半ば強制的にバーベキューに参加させられたのでした。


レイは人見知りな性格上、バーベキューのメンバーたちとうまくやれません。


そこにあらわれたのが、日本人の青年ブー。


「アイム・ブー」と彼は言いました。


公園に到着して数人の前でそれだけしか言わなかった彼が、人懐っこい笑顔でレイに話しかけてきました。


レイは彼がすぐに私から離れるだろうと思っていましたが、ブーはレイから離れませんでした。


レイとブーはベンチに移動し、ワインを飲みながら、お互いのことを話しました。


レイとブーは同い年でした。


ブーがオーストラリアに来たのは、1歳のとき。


画商である両親が永住権をとったので、ブーはメルボルンで育ちました。


「ビクトリア国立美術館は行った?」
とブーは、レイに聞きました。


「行ってない」とレイは言いました。


じゃあ、博物館は?
動物園は?
植物園は?
と、ブーは矢継ぎ早にレイに訊ねます。


「どこにも行ってない」とレイは答えます。


「行かなきゃ。案内するよ」


レイと話をしている間も、ブーはバーベキューの浮かれたメンバーに声をかけられます。


そのたびにブーはフランクな口調で返しました。レイはそんなブーをうらやましいと思いました。「きっと私とちがって、たくさんの友達がいるのだろう」と。


そんな目の前の浮かれた光景を見て、彼は突然乾いた声を発したのです。


「竜宮城なんだ」


ブーの表情はなくなり、抑揚のない声。

さっきまで無邪気に笑っていたのに、そのときの彼はすっかり表情をなくしていて、なんだかちょっとだけこわかった。


ブーはワインを飲み干すと、元の陽気な笑顔を見せて


「いいとき連絡して」


ブーはメモ用紙に電話番号を書いて、レイに渡します。


それから、レイは電話番号が書かれたメモ用紙のことを忘れていました。


ある日、学校でビクトリア国立美術館の割引券をもらったとき、ブーのことを思い出したのです。あのときの彼の声とつめたい瞳とともに。


━ 友達を。そう、友達をつくるのだ。


レイはそう心に決めました。


2人はデートを重ね、レイは彼を意識するようになっていました。


そんなとき


「俺、レイのこと好きだよ。一緒にいたい」


ブーはレイに告白します。


始まれば終わる。私がいつも怖いのは、終わりになることじゃなくて、終わりになるんじゃないかと不安になるあのぞわぞわとした時間だ。


レイは、何も答えられずに黙っていました。


すると

「あのさ、期限つきっていうのは、どう?」


ブーは明るく言いました。それは、レイの留学期間が終わるまで、日本に帰るまで、という意味の期間限定でした。


「いいよ。期間限定なら」


いつしかレイは、ブーの存在がなくてはならないものになっていました。愚痴を言いあえるようになっていました。落ち込んだり、自分の弱さに嘆いているときは、くだらない冗談でブーはレイを笑わせてくれました。


「堂々としていればいいんだ。俺はレイの気高い生命力を知っているよ」


ブーはそう言って、レイを肯定してくれました。

彼のどこが好きかと訊かれたら、私はまっさきに「親指」と答える。

ブーは私と手をつないでいるとき、絡めた指から親指だけ少し話して、その腹でそっと私の手を撫でる癖があった。

私はそのしぐさがとても好きだった。ただ無条件にかわいがられている猫みたいな気持ちになった。

(中略)

彼のそばにいれば怖いことはなにひとつ起こらないように思えた。

日本にいるときはきっとしないことを、私はたくさんした。

ボリューミーなつけまつげを装着すること。

ばかでかいサングラスを頭に載せること。

パブで踊りだした他の客にのせられて、一緒になって腰を揺らすこと。

横断歩道の前で信号待ちするときに、ブーと軽くキスをかわすこと。


ケンカをしながらも、2人は愛を育んでいきます。


期間限定


留学期間が終わりに近づいたとき、レイはブーから絵のモデルをやってくれないかと頼まれます。


彼の友達の画家の卵、ジャック・ジャクソンがレイの写真を見て「彼女を描きたい」と言ったからです。

「一日だけ頼むよ。エスキースだけでいいって言ってるから」


エスキースとは、下絵のこと。
本番を描く前のデッサンのようなものだという。


その日、絵を描いてもらう日。


レイは赤色の服に、ブーにもらった青い鳥のブローチをつけてジャック・ジャクソンのアトリエに行きました。


ジャックの手元には二色の絵の具。赤と青。


レイはブーから目を逸らしませんでした。


あと数日で日本に帰る。
ブーと会えなくなる。
彼もレイを見つめています。

どうしたの、ブー。
そんな顔してないで、
くだらない冗談を言ってよ。
いつもみたいににやにやしてよ。
なんでそんな優しい目をしてるのよ。
抗議したくなる。
私はほんとうに、自分勝手だ。


ペインティング・ナイフが刻むシャープな音。


見つめあう二人。


静けさの中で、時間だけが過ぎていきます。


私はブーが好きだ。すごくすごく好きだ。離れたくない。

(中略)

涙をこらえて、こらえてこらえてこらえて、私は奥歯をぎゅっと噛みしめる。ブーの頬に、涙がつつっと伝った。

━ ずるい、私はこんなに我慢してるのに。


哀しい旋律が、ジャックのアトリエに流れています。


そして


過ぎてゆく時間の中で、一瞬だけ時が止まったのです。


ガタンと大きな音がしました。


レイが座っていた椅子が突如、床に倒れたのです。


レイが勢いよく立ち上がったのだ。


         ◇


えっ、ここで終わるの!
「この話がずっと続いてほしい」と思いながら読んでいたのに。


始まれば終わる。


とレイが言っていたように、第一章はここで終わってしまいます。まるで音が最高に盛り上がったあと、急にカットされたようでした。


第二章から第四章は、このエスキースにまつわる別の物語がはじまります。


二章「推し」への愛

三章「弟子」への愛

四章「元彼」への愛


テイストが変わりますが、ベース音は赤と青が流れています。


どの章の話にも、レイが描かれたエスキースが物語の中に掛けられていました。どの話も「いい絵だ」「いい話だ」としみじみ感じます。


そして


エピローグの直前 


四章「赤鬼と青鬼」の最後の6行に


完全にやられました。


突然、感情が水彩画のようにじわ~っと滲んで溢れ出てきました。


目のくらむような美しい情景に居合わせました。


壁に掛かった「赤と青のエスキース」が祝福しているようでした。


さらに


エピローグは、この物語に一気に色がつきます。


エピローグを読むと「すべてがこんな風につながっていたんだ」と感嘆させられます。


この物語を読むと、絵を見に行きたくなります。
一枚の絵に、こんなにも物語があるのなら。


本の帯には


この本を読み終わったとき最初に思い浮かんだ人を、どうか大切にしてください  ━  。


心当たりはありませんか?


ただそばにいるという何よりも深い愛情だったのに。



【出典】

「赤と青とエスキース」 青山美智子 PHP研究所


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shinku  |  読書ヒーリング
いつも読んでいただきまして、ありがとうございます。それだけで十分ありがたいです。

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