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「リカバリー・カバヒコ」 青山美智子
「不安っていうのも立派な想像力だと、あたしは思うね」
「リカバリー・カバヒコ」 青山美智子
助けてもらったというより、救ってもらった言葉がこの物語にはたくさんありました。
このところ、仕事で圧がかかることがたくさんあり、不安で押しつぶされそうでした。
夜、眠っていても意識がずっとあり、寝ているのか寝ていないのかわからない状況、そんな不安がつづいていました。
僕は、この物語のキーパーソン「サンライズ・クリーニング」という小さなお店のおばあさんの言葉に救われたんです。
◇
新沢ちはるは、ブライダルプロデュースの会社で働いているウェディングプランナー。
接客、打ち合わせ、営業、各種業務の手配、挙式の立ち会い、スタッフへの指示、さまざまな業務にストレスを抱え耳に不快感が襲います。
耳鼻科で受けた病名が耳管開放症。
通常は閉じている耳管が開きっぱなしになり、耳の中の圧が調整できなくなるというもの。原因はストレスや過労が多いという。
食べ物の欲求がなくなり、30キロ台まで体重が落ちこんだところで、会社から休職を認められました。
とにかく疲れていた。いろいろなことに。
あるとき
ちはるはお父さんのスーツを、「サンライズ・クリーニング」に持って行きます。
「サンライズ・クリーニング」のおばあさんは、ちはるにこう言いました。
「ずいぶん長く着込んでいるね。お父さんのかい?」
(中略)
「はい。お恥ずかしいです……」
「恥ずかしくなんかないよ。一着の服をメンテナンスしながらずっと長く着続けるって、愛しいことだよ。体と一緒」
代金を払って、ちはるは店を後にします。
そして、ある公園に向かいます。
あのカバに会うためだ。
以前、「サンライズ・クリーニング」の近くにある「日の出公園」に行った時、公園の中にあったカバの乗り物(遊具)の人畜無害な姿に安心感を覚え、ちはるの心は芯から癒されたのです。
公園に着くと、カバの乗り物には先客が。
その先客は、新沢家の下のお部屋の樋村さん(みずほちゃんのママ)でした。みずほちゃんは、ブランコを楽しそうに漕いでいます。
「あら、ちはるちゃん。こんにちは」
樋村さんは言いました。
樋村さんも時々、この公園に来るそうです。それも、このカバの乗り物に会うためだといいます。
「知ってる?カバヒコの伝説」
(中略)
「カバヒコ、っていうんですか。その子」
「そうらしいわよ。あのね、体の治したいところと同じ部分を触ると、回復するんですって。
人呼んで、リカバリー・カバヒコ。
……カバだけに」
樋村さんは人差し指を立て、ちょっとおどけて、ちはるにそう言うのでした。
実は、樋村さんも同じように「カバヒコ伝説」を「サンライズ・クリーニング」のおばあさんから教えられました。
人差し指を立て、「人呼んで、リカバリー・カバヒコ ……カバだけに」という名調子で!
二人で少し話をしたあと、樋村さんは、みずほちゃんと一緒にピアノ教室に行ってしまいました。
一人になったちはるは、カバヒコの耳に手を伸ばし、そっと、なでました。
リカバリー・カバヒコ。
あなた、そんな名前だったの。
つらいね、しんどいね、ちはるは、そっとそっとカバヒコをなでました。
それから数日後
お父さんに「スーツいつかな?」と言われて、ちはるはスーツをクリーニングに出していたことを思い出します。
「サンライズ・クリーニング」で引換券を渡すと、シャキッと生まれ変わったスーツとともに、おばあさんは黄色いセロファンに包まれた一粒のハチミツキャンディをちはるに手渡しました。
「栄養あるから。あなた、ちょっと顔色よくないからさ」
おばあさんにいわれ、ほろりときた。
(中略)
「なんていうか……いろいろ不安になっちゃうんです」
すると
「不安っていうのも立派な想像力だと、あたしは思うね」
「……想像力?」
「そうだよ。不安っていうのは、まだ起きていないこととか、他人に対して抱くものだろ。それを思い描けるっていうのは、想像力がある証拠」
(中略)
「想像力って、いいことに使うんだと思ってました」
「もちろん、心遣いも思いやりも、すべて想像力だからね。不安がりなあなたは、きっと優しい人だと思うよ」
◇
苦しい時や辛い時って、未来の不安ばかり考えてしまいませんか? これからどうなるんだろう? この先大丈夫かなぁ?って。
ずっと意識があり、不安で眠れなかった僕は、このおばあさんの言葉に救われたんです。
「先のことじゃなくて、誰かのことじゃなくて、今の自分の気持ちだけを見つめてごらんよ。飴でも舐めながらさ」
◇
ちはるは職場の同期の洋治のことが好きでした。
しかし
一つ年下の同業他社から転職してきた澄恵と洋治が互いに惹かれ合っていることがわかります。二人のデート現場も目撃してしまいます。
ちはるの耳の不調はどんどん進行しました。
ちはるはカバヒコの所へ行きます。
両手で頬に触れ、額に触れ、耳をなでます。
「好きだったの」
カバヒコに思いを打ち明けました。
澄恵、私から仕事も洋治も奪っていかないで。私が必死に積み上げてきたものを、簡単に壊さないで。
ひどい。ふたりともひどい。
私を不幸にしたあんたたちなんか、幸せになれるわけない。
カバヒコは潤んだ目でちはるを見つめます。
すると
ちはるは、洋治も澄恵も悪くないことに気づきます。ただお互いを好きになっただけだと。
私はカバヒコの耳を、なで続けた。
カバヒコ、助けて。
自分にとって苦しい現実を、受け付けようとしなかった耳。
不安という想像力に押しつぶされて、ふさがってしまった耳。
そのせいで自分の声ばかりを聴いている耳。
外への感情は、すべて自分自身に跳ね返ってくる。
カバヒコ、助けて。リカバリーして。
人の幸せを願う私に、どうか戻して。
カバヒコへの祈りが届いたのか、予想していなかった形で、ちはるの状況は好転してゆくのでした。
◇
「サンライズ・クリーニング」のおばあさんとカバヒコは、この物語に登場する人たちを回復させました。
おばあさんは悩んでいるその人たちとカバヒコとの間を取り持って、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれたんだと思うのです。
おばあさんの言葉は、光り輝く救済の言葉でありました。
そして
カバヒコは、リカバリーするための重要な存在でありました。
自分を見つめ直すこと。
そのことが
状況を好転させるきっかけになるんだと気づけた素敵な物語でした。
【出典】
「リカバリー・カバヒコ」 青山美智子 光文社