映画評 ある閉ざされた雪の山荘で🇯🇵
作家・東野圭吾による同名の原作小説を『ステップ』『ヒノマルソウル 舞台裏の英雄たち』の飯塚健監督による実写映画化したサスペンス・ミステリー。
新作舞台の主演の座をかけて7人の役者がとある宿泊所に集められた。参加者たちは「大雪で閉ざされた山荘」というシチュエーションで起こる連続殺人事件のシナリオを演じることに。しかし外部との通信を遮断された密室で1人また1人と参加者が消えていき、彼らは互いに疑心暗鬼に陥っていく。
『そして誰もいなくなった』をベースとしたストーリー展開、集められた役者たちによる演技による騙し合い。二転三転と騙される本格的なミステリーを期待せずにはいられなかった。しかし、蓋を開けてみればシリアスの皮を被ったお間抜け映画であることに落胆の色は隠せない。
まず冒頭のシーンからコケている。久我和幸(重岡大毅)を除く6人の役者陣全員がアイマスクをつけて移動している。現在地を場所を知られないようにする主催者からの対策なのだが、絵面的にはバラエティ番組だ。『水曜日のダウンタウン』が始まるのかと内心騒ついた。
しかも、ロケバスであるならまだしも民間のバスで移動している。降りて指定された場所に歩いて行く際、アイマスクを外しているため、いよいよ何のためにアイマスクをつけていたのか意味不明だ。間抜けにも程がある。
バスを降りた6人と久我が宿泊所で合流する。自己紹介がてら久我が6人のプロフィールを一人一人ご丁寧に説明してくれる。誰が企画の参加者なのかを視聴者に説明するためのバラエティ演出を映画館のスクリーンでやられるのは不細工すぎてしんどい。一体何を見せられているのかと。
大塚明夫ナレーションもバラエティ番組で聴き慣れてしまっているためノイズだ。また、『ドッグヴィル』を連想させる演出も、これまでのバラエティ演出のせいで、監視物の企画のようにしか見えなかなったのは勿体無い。
集められた彼らが役者として人生を賭けているように見えない点も不細工だ。元々彼らが集められた趣旨は、次回作の主演を決めることにある。
実際に事件が起きてるかもしれない中では演技どころではないかもしれない。しかし、毎晩1人消えていくのは単なる演出の可能性も拭いきれない。彼らがすることはただ一つ。どんな状況下に置かれようとも探偵や刑事になりきって、事件を解決すること。つまり、怖い気持ちを押し殺して演技をし続けることだ。そこに主演になる道筋が見えてくる。
しかし、役にのめり込む人がほぼ久我だけになっているのに対し、残りは何をしてるんだと説教したくなる。いや、何もしてないならまだマシだ。途中で逃げ出そうとする人がいるのは噴飯物だ。貴方にとって演技をすること・役者としてあろうとすることは、こんなにも軽いものだったのかと肩を落とさずにはいられない。
『セッション』のようにいかずとも、主演を張るためであれば、どうな手段も選ばないような、執念に事件を解決しようとする泥臭さが欲しい所。久我の「演技とは殺し合い」という台詞に深い意味をもたらせることができただけに、ただ滑っているだけになっているのは可哀想に映る。
途中森川葵演じるとあるキャラクターの奇行が明らかになるのだが、彼女なりの演技に賭ける想いが強くてのこと。正直、彼女に匹敵し肩を並べられたのは久我くらいだ。7人も集まったのにも関わらず、見応えのないやりとりを見せられるのは不憫で仕方がない。