映画評 みなに幸あれ🇯🇵
「第1回日本ホラー映画大賞」で大賞を受賞した下津優太監督による同名短編を商業映画として下津監督自らがメガホンを取り、長編映画として完成させたホラー映画。
祖父母が暮らす田舎へやって来た看護学生の“孫”(古川琴音)は、祖父母との久々の再会を喜びながらも、祖父母や近隣住民の言動にどこか違和感を覚える。祖父母の家には得体の知れない想像絶する“何か”がいた。やがて、人間の存在自体を揺るがすような根源的な恐怖が一家を襲う。
本作の根底には「誰かの不幸の上に、誰かの幸せが成り立っている」というテーマがある。収入、人脈、家庭環境など何を持って幸福かは人それぞれ違う。だが真に自分自身の価値観によって決めた幸せなのかは疑わしい。
というのも、人間は社会性の影響下のもとで生活をする生きである以上、他者からの影響は絶対に逃れられない。現代に謳われる幸福論は社会的背景・歴史的背景や偉人らが記した幸福論をベースにしているように。逆を言えば他者を媒介するからこそ不幸へと転落するともいえよう。
”孫”が祖父母の家で目にした”何か”は、祖父母によって、人としての尊厳を奪われた人間だ。「縛っておかないと一家が不幸になるから」という謎の論理構造をあたかも一般常識であるかのように語る祖父母が恐ろしく映る。しかも、地域住民や両親も既知済みという事実に観客と登場人物らの倫理観の乖離が、より恐怖を倍増させる。
”何か”が家に来てしまう背景に、「自分たちより不幸そう」という理由で連れてこられる。”何か”からすれば勝手に不幸者というレッテルが貼られた状態だ。他者から押し付けられた幸福論の被害者ともいえよう。
また、祖父母はじめ地域住民らの他者と比較しなければ幸福を感じられない心の貧しさが浮き彫りになる。物語途中”何か”は脱走し車に撥ねられて死ぬのだが、祖父母はまた新たな”何か”を連れてこようとする。幸せの軸を他者との比較においてしまうことは、飽くなき欲求を満たすための地獄ループでしかない。
祖父母から両親へと語り継がれ、両親から自分へと”何か”について語り継がれる予定であったことを見ると宗教的恐ろしさや家族という名の呪縛も想起させられる。
「誰かの不幸の上に、誰かの幸せが成り立っている」価値観の基で行われた悪行は、代々受け継がれてきたのであろう。自分自身で見つける幸せの価値基準ではなく、受け継がされてきた価値観に迎合させられていると見れば、一家もまた争うことができず思い込まされてきた被害者なのかも知れない。
「思い込まされた幸福」という点では、生贄によって懐妊した祖母の妊娠は衝撃が走る。ひと昔前の一般常識であった「結婚・妊娠=幸せ」から、祖父母の価値観が止まっている比喩と捉えられる。
これまで必死に祖父母のやり方に抵抗していた”孫”が、祖父母のやり方に迎合した瞬間、祖母は無事に出産する。必死に争っていた若い世代が、社会の仕組みに飲まれ、他者が決めた運命や古き価値観に迎合せざる得ない社会の皮肉を表しているのかも知れない。