映画評 ブルー きみは大丈夫🇺🇸
『クワイエット・プレイス』のジョン・クラシンスキー監督による、子どもにしか見えない不思議な存在と孤独な少女の交流を描いたファンタジードラマ。
母を失くし心に傷を抱える少女ビーは、祖母の家で“子どもにしか見えない不思議な存在”であるブルーに出会う。ブルーの友だちだった子どもは大人になり、彼のことを忘れてしまっており、新たなパートナーがいないブルーは消える運命に。ビーは、大人だがブルーを見ることができる隣人の協力を得て、ブルーの新たなパートナーを探し始める。
「幼少期にイマジナリーフレンドはいましたか」という質問に対して多くの人は「NO」というかもしれない。しかし大人になるにつれて忘れているだけで、心理学や精神医学的には幼少期や子供時代には空想上の友達がいたという。
本作で登場するブルーをはじめイマジナリーフレンドたちは個性豊かで見た目も愛くるしく、画面が華やかに彩るため見ていて飽きない。また、心に傷を負い塞ぎ飲んでいた少女ビーがイマジナリーフレンドこと通称IFたちとの交流によって、使命感を覚え、悲しみから前向きになる姿及びストーリーから、IFの存在意義は決して頭の中だけに留まらず、幼少期の子供たちが現実を生きていく上で重要なパートナーであったと言えるだろう。
楽しく温かい気持ちになる映画ではあるのだが、真面目に見て仕舞えばツッコミどころが非常に多く、ディティールを詰め切れていないのが気になるところ。
ビーが出会うブルーをはじめIFたちは子供たちが大人になったことで見えなくなった、一定の役目を終えた者たち。ブルーのように、他のIFらが消える運命にいないことに疑問符が浮かぶ。なぜブルーだけなのか。
そもそも論、大人になるにつれてイマジナリーフレンドの存在は記憶から消えてしまうのであれば、本作で登場する大人たちはなぜ思い出したのだろうか。イマジナリーフレンドというよりかは、引っ越しを気に疎遠になったものの数十年ぶりに再会したかつての大親友のように見える。
そして何より1番の疑問が、ブルーをはじめIFたちが消えたくないから、新たなパートナーを探す設定だ。消えたくないからという自己都合にしか見えない。『インサイド・ヘッド』のビンボンとは大違いすぎてげんなりする。
また、IFは個々の空想によって生み出されているため、他の子が受け入れてくれるはずがない。その子はその子で新たなIFを作り上げる。ビンボンのように、一定の役目を終えたからこそ取れるスタンスを模索した方が色々と気になる設定に足を引っ張られずに済んだかもしれない。