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完全AI化社会での生き方の仮説

「奴隷制度の再来」により、人類は労働から解放される。

このように私は考えています。

奴隷に必要な仕事をさせることで、その主人は煩雑な労働から解放されるのです。

古代ギリシャに哲学者が多いのも、労働は全て奴隷に任せることで、

労働から解放され多くの時間があったため“思考”することに時間を使うことができたからです。

現代のこれからの社会ではAIが人間の代わりにどんどん労働を担う領域が増えてくるでしょう。

それにより「AI化のせいで仕事を失うのではないか」という不安が社会にうっすらと蔓延しているような感じがしませんか。

しかし見方を変えると、単純労働は全てAIが担うことで多くの人間が“労働”から解放されるのです。

お金を生み出す生産という“労働”がAIにより自動で行われるのなら人間に必要なのは「消費」だけになります。

なら生産で使われるはずだった人件費はもちろん浮きますよね。

浮いたお金はどうするのか、AI化で少数精鋭にし、儲かった企業が自社のために溜め込んでおくのでしょうか。

仮にそうなったのなら世界でも大きな問題になっている貧富の差はさらに大きくなり社会はより荒れることは容易に想像がつきます。

生きる希望を失った人はそんな社会の仕組みを壊すことでしか自分達は救われないと思いテロを行なったり、宗教へ救いを求めるようになっていくでしょう。

しかしここでアプローチを変えれば状況は大きく変化します。

そこで注目されているのがベーシックインカムですよね。

AIによって生産が行われるのなら、消費するだけになった人間には国から毎月お小遣いのようにお金が配られるようにするということです。

例えば毎月25万円が国から支給されるのならば生活していくだけなら何の問題も生じません。

そんな状況ならあえて“貯金”をする必要もなくなり、現代のように国民がお金を溜め込んで経済が停滞するようなこともないでしょう。

その中でもっと稼ぎたい人はビジネスを行うようになります。

で、ここからが本題。

AI化が進み、人が労働から解放され、ベーシックインカムにより生活への不安がなくなった社会で人はどんな生き方をするでしょうか。

その状態でも仕事をしようとするのか、自堕落に生きるのか。

「お金を稼ぐこと」を目的とした資本主義の中、生活の安心が保障された社会で何を目的として私たちは生きることになるのでしょうか。

労働から解放された時に、本当に生きることの、人としての真価が問われるような気がしませんか。

「お金を稼ぐ」というわかりやすい指標がなくなった世界で私たちはどのような生き方に変わるのか、それを考えると面白いですよね。

あり余る時間の中でさらに学び、自分を成長させようとするのか

自由を謳歌すると言いつつ、自堕落に生きるのか

この二極化になるのではないでしょうか。

前者を「性善説」、後者を「性悪説」といいます。

私たちが何も強制されなくなった時にどんな行動を選択するのか、ということですね。

前者の道に行くためには、自分で「人生の目的」を定める必要があります。

本当の意味で一人一人が自分だけの道を探し、歩いてくようになるでしょう。

後者は無目的に目の前のラクをしたいという欲求に従うことになります。

まあ無目的に自堕落に生きることをずっと続けるのも結構大変なので、

自分と向き合うことをやめなければ前者の道に自然に移行していくのではないかとも思っています。

そう、この「何を目的として生きるのか」の重要性が増してくるのです。

諸条件から自由になればなるほどその「問い」は重くのしかかってきます。

この「問い」の自分の答えが見つからないと「生きる意味」が分からなくなり、死を選ぶ人も増えてしまうのではないでしょうか。

しかし自分の社会での役割、使命とも言えますが、それが分かると性善説に移行することができます。

そうすると時間を浪費すること、死ぬことが惜しくなり人生の充実度も大きく増してくるではないかと思います。


しかし現実はAI化が進んでいるとはいえまだまだ過渡期です。

様々な問題が起き、併せて新型コロナウィルスで社会が混乱しています。

この未来が訪れるのはまだ先になりそうです。

ならばこそ自分の社会での役割は何なのかを考えるのは余裕のある人が考えるべきなのです。

最近、私の中で努力主義・能力主義的な考え方が大きく変化しました。

ノブレス・オブ・ルージュ、力ある者には責任があるということですね。

そもそも健康的に何の障害も持たず、日本という恵まれた環境に生まれ、大学にまで行かせてもらえたもの“運が良かったから”だけです。

「努力が足りないからうまく行かないんだ!努力すればみんな絶対にうまくいく!」と思っていましたが、

そもそも生まれつき何らかの障害を持っていた人にも同じことを言うのか?と言われると言えるわけがありません。

私は能力で人を差別していたということに気付いたのです。

だからこそ私は「何を目的として生きるのか」を考え、自分の答えを見つけ、社会での役割を全うできるように生きるのです。


結論ですが、完全AI化社会での生き方は「性善説」と「性悪説」に二極化し、その差は自分の役割・使命を見つけているかどうかということですね。

ではでは。

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