『英語力』に『国語力』は内包されるか?
高校時代の英語教師が、
「英語の試験というのは、実は、国語の試験なのです!」
と強弁した回想を書きました:
その後、クラス会などで、
『あいつ、変な先生だったな』的に回想するのとはまた別に、
(数え方にこだわるあの試験自体は別にして)ロイド眼鏡の言は正しかったのではなかろうか、と個人的に思うことはありました。
英語も国語(日本語)も、言語教育なので、
① 連なった文字記号から経験的に学習したルールに従って意味を読み解き、
② その意味の連なり/組み合わせから文章の内容を(時に情景を)想像する。
という点で共通しており、①のルールが異なるのみ。
中学や高校の英語の授業では①に重点が置かれ、
国語の授業では(ルールは日常会話や小学校までの教育で既知との前提で)②に重点が置かれる。
私は仕事として主に日本語で工学系の報告書を書き、主に英語で論文を書いてきました。
その後、英語の技術論文の作成方法や口頭発表の実施のコツに関して、工学系大学院で講義していました。
日本語で報告書を書いたり、口頭発表をする際に、わかりやすく表現するために重要なことは結局、『英語で行うようにそれらを行う』ということでした。
例えば、
1. 主語を明確にし、
2. 事実と推論の区別を明確化し、
3. 結論を明確に述べる。
(日本語で書かれた論文には、そうでないものも散見される)
従って(という接続詞自体が理系的ですな)、国語の授業全体から韻文や情緒的散文を除いた残り(論理性重視の部分)は、かなり英語と重なる部分があります。
そのせいか、最近、理系の大学入試(個別学力試験)から国語を廃止する学部が増えているようです(共通テストには国語が残ります)。
ほんの一例ですが、
山形大学医学部は2024年度入試から国語が廃止され、その分、英語の配点が倍増するそうです。
名古屋大学は、理学部と医学部が2025年度入試から国語を廃止します。法学部、工学部、情報学部はそれ以前から廃止されているようです。
まあ、入試って、問題の作成にも採点にも相当な経費がかかるので、記述式がしばしば出現する現代国語なんてのはできれば省きたい、という本音もあるのでしょう。
特に、『論理国語』はともかく、『文学国語』の方は、それこそ多様性の時代で複数の解釈が可能な文章もあり、採点の公平性という観点からも、入試からは除きたいところでしょうね。
ただしかし、入試から除かれると、大学の予備校と化した高校では、国語の授業自体が軽視されたりする。軽視されなくても、『論理国語』に重きが置かれ、小説など文学作品の読解などは減る傾向にあることが危惧されています。
例えば:
ただ、日本の『国語』は論理の方も文学の方も『読解』に偏っていて、いわゆる『レトリック』をあまり教えない。
『レトリック』って『美辞麗句』なんて訳されたりもしますが、むしろ、情報を効果的に提示する技術だと思います。
早期に『日本語Report Writing』のような授業をやり、その上で『日本語Debate』のような口頭実践教育をするのも、『論理国語』にとって重要と思います。
私のような旧人類はそんな教育を受けていないので、企業に入って報告書作成を命じられ、情緒的で曖昧な文章を書いて、直属の上司に真っ赤になるほど直されたものです。
というようなわけで、高校での授業だったり試験だったりが『論理国語』に重心を置くようになるのは自然なことだと思うのです。
でもそれで、問題だ!と怒る作家なんているのかな?
文学部の先生が個人的危機感を持つだけじゃないのかな?
(小学校の国語で物語の面白さを教えることは重要!)
小説など文学作品は、読みたい人が読めばいい。数学の授業中でも、それこそ、『論理国語』の授業中でも、読みたくてたまらない小説やマンガがあれば、教科書に隠して読めばいい(私はそうでした)。
なんだか当初のテーマを逸脱してしまいましたが、元に戻ると、
・『英語力』に『国語力』、特に『論理国語力』はかなり内包される。
従って、
・『英語の試験は国語の試験』とまでは言えないが、『英語の試験で国語力もかなりわかる』ぐらいは言える。
のではないでしょうか?
でもたぶん、ロイド先生、そこまでは考えてないよね。