マイ・オフィス(短編小説;11,000文字)
<本来なら役員個室のはず ── 幻想を抱く窓際社員の物語>
ベルが鳴り続けている。特徴的な間欠音は外線だ。私の机に寄り添って《島》を形成している部下の机のどれかで鳴っている。
(お客からの大事な用かもしれない)
すぐ右前に横顔を見せる元製造部長の鶴田主幹技師は、時代小説に読み耽っている。
(聞けばいつものように、経営を歴史に学ぶのだ、とか何とか言うだろう)
右手奥の石河原参与は、何事か頷きながら赤ペンで書類に書き込みをしている。
(また、組織表の改訂か)
私は電話に手を伸ばした。4人の部下はひとりひとり異なるダイヤルイン番号を持っている。そして、彼らが自分以外の電話に決して出ないのはいつもの事なのだ。
「もしもし」
「もうしもし、池沢主査様でいらっしゃいますか? いつもお世話になっております。国倉高原カントリークラブでございます。来週ご予約いただいておりますコンペの事でございますが……」
「いえ」大事な電話などあるはずないか、と私は内心舌打ちした。
「池沢はまだ、出社しておりません」
「さ、さようで? ではまた……」
相手はあわてたように電話を切った。
「よう」
片手を上げて横柄に部屋に入って来たのは、3人目の部下、大山・元営業部長である。
「あ、おはようございます」
私は頭を下げた。大山参事は係長時代の直属上司だ。9時45分を回っている。
大山は私の左前の机に新聞を広げると、太い指で鼻毛を抜き始めた。囲碁将棋欄を熱心に眺めている。
「お、灯りが」
大山の声にふり仰げば、部屋の照明がほんのわずかずつ瞬いている。
「蛍光管の交換を手配しなくちゃいかんねえ」
鶴田が言った。── 言っただけである。
「これじゃ、目が悪くなる。仕事にならん!」
大山が不機嫌そうに鼻毛をむしった。こちらも動く気配はない。石河原は神経質そうに首を捻りながら書き込みを続けている。
(仕方がない)
私は電話を取った。
「もしもし、営繕ですか? 人再課ですが、蛍光灯交換を……」
「営繕じゃ、時間がかかるだろう。私らの若い時には自分で交換したもんだが」
鶴田が独り言のように呟いた。私は電話を切って席を立った。
営繕倉庫から持ってきた脚立に乗って蛍光灯を換えていると、またベルが鳴った。あわてて降りる時、脚立の段を滑ってすねを思い切り打った。
「てててて……はい、人再課です」
俺は課長だ、電話番じゃねえぞ、と思いながら受話器を取った。
いつだったか、顧客との電話中にベルが鳴り始めた事があった。しかし、今と同様、その場にいた3人の部下はいずれもだんまりを決め込み、呼出音はやがて空しく止んだ。そしてその日のうちに、私は電話をかけた当人である担当役員に厳しく叱責されたのだ。
「はい、人再課です」その役員からだった。
「池沢主査ですか? あいにくただ今、席を外しておりますが……」
以前『まだ出社していない』と正直に応答したら、その後1ヶ月以上に渡り、池沢からネチネチ嫌味を言われ続けたためである。
「は、承知いたしました。そのように伝言いたします」
私はメモ用紙にペンを走らせた。
「池沢君にも困ったもんだね」
受話器を置くのを待っていたように鶴田が言った。
「10時近くになっても席にいないんじゃ、仕事にならんだろう」
(── 仕事か)
私は鶴田の手にある文庫本を見た。
「重役出勤、って奴か? ガッハッハ……」
大山の皮肉に鶴田も石河原も唇を歪めた。
我が社には、55歳を過ぎた社員は役職を解く、という内規がある。このため、役員に就任する者を除いて主だった管理職は、それまでに子会社や関連会社に出向・転籍するのが常であった。
しかし、不況風が吹き始めた頃から天下りの打診を断る企業が増え、社内に滞貨が蓄積し始めた。だが、部長クラスのベテランが元の職場に居座っていては、社内の活性化は望むべくもない。
そこで2年前に作られたこの人材再活用課で、《人材のリサイクル》という、重要かつ困難な役目を担う初代課長を命じられたのが、何の因果か、この私なのであった。
「池さんといえばね」鶴田が声をひそめた。
「舘島常務が世話した村崎プラスチックスへ転籍の話、固辞したっていうじゃないの」
「ほほう」大山も身を乗り出した。
「ご自分の立場、わかってるのかねえ。課長からはっきり言ってやった方がいいんじゃないのか、ええ?」
私は曖昧に頷いた。
実際は、子会社の役員就任話に、池沢は大いに乗り気だった。しかし、彼が米国から戻された理由が現地法人の秘書に対するセクハラ疑惑であった事を知った先方から、はっきり断ってきたのである。
「ところで、松林部長ですがね、桐山商事への転籍が決まったようですよ。裏話、ご存じですか?」
総務部長辞任後も人事にパイプを持つ石河原が、むっくりと顔を上げた。
「山本専務の強力な押しがあったという話だろ? へん! でなきゃ、このご時世、あんな野郎に行き先なんか、あるもんか」
大山が吐き捨てるように言った。成功者に対する陰口は朝のラジオ体操だ。《隔離》の意味なのか、だだっ広い部屋には人再課があるのみで、他の社員に聞かれる心配はない。
「奴さんも若い頃から専務に盆暮れの付け届けをしてきた成果が、定年の間際になってようやく現れた、っちゅうわけですな」
「ふん! 迷惑なのは桐山商事さ。我が社一のボンクラを押し付けられちまうんだからなあ。桐山の社長も言ってるらしいぜ ── 切れ者の鶴田さんなら、喉から手が出るほど欲しいんですがねえ ── なんてな」
「いやあ、私はだあめだめ」
大山のおだてに鶴田が大きく手を振った。
「製品開発の裏の裏まで知り尽くしていますからねえ。私と一緒にノウハウが漏洩するのを会社は心底恐れているんです。悲しいかな、あと3年間、飼い殺しですよ。大山さんこそ、京香寺開発の社長に迎えたい、という話が進んでいたそうじゃないですか」
「ああ? あれは蹴った。あそこなら俺が行くまでもなかろう。それに、社長が右腕としてまだまだ頼りにしている、と言うんでな」
鶴田は確かにかつては有能なエンジニアだったが、その技術センスはとうに時代に取り残されてしまい、狷介さだけが残った彼を欲しがる会社があるとは思えなかった。
そして、大山の役員就任を阻んだのは、ほとんど背任に近い公私混同が原因である事は誰でも知っている。社長には疎まれこそすれ、頼りにされる事などありえない。
「なるほど、社長は大山さんこそ役員に上げたかったらしいですからな」
「済んだ事さ。俺は会長とうまくいってなかったからな」
「大山さんが切れ過ぎるからですよ」
(……やれやれ)
幻想を語り合うプライド病の患者たちに、私は思わずため息をついた。
「これは、……昨日の湯のようですな」
いつの間に来たのか、銀髪をきれいに撫で付けた池沢主査がポットに棒温度計を突っ込んでいる。
「ほうら、47℃だ。これじゃ美味いカフィーは淹れられない。私が汲んできましょう……よっこら、しょっと」
池沢はいかにも重そうにポットを持ち上げた。
「あ、池沢さん、私が行きますよ」
姑の聞こえよがしに居たたまれなくなる嫁の心境で席を立つ。
「いやいやあ、そんなあ、課長さんにお湯汲みをさせるわけにはいきませんよ」
池沢が苦笑しながら言う、しかし、そのポットを持つ手はもう半分、私の方に向かって突き出されているのだ。
「いや、いいんですよ。若い者の仕事です」
笑いながらポットをひったくり、給湯室に向かった。迷惑な雑用だが、池沢に湯を汲みに行かせたら、幹部食堂で役員に何を言いつけられるかわかったものではない。
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