再勉生活! 屋根裏Dungeon(地下牢)の友人たち
最初の学期 ── 講義に追われるリアル『再勉』生活が始まりました。主な講義が行われる3階建、Ceramics Buildingのなぜか4階の部屋に机を割り当てられました。
前の記事でRoroさんからいただいたコメントに返事を書いているうちに、
あの屋根裏部屋の空間は、暗く、湿っていて、── まるでダンジョン(地下牢)のような所だったな、と思い返しました。
── 鎖でつながれていたわけではありませんが……。
本来地下にあるはずのDungeonが屋根裏に、という意外性も面白い!── ということで、地下牢に住んでいた仲間を紹介したいと思います。
もちろん、3年半の間に入れ替わりはありましたが。
私のオフィスは4人部屋ですが、それぞれ机ひとつキャビネットひとつが専用スペースでほぼ一杯、このほか小さな流し(Sink)があるだけです。
オフィスメイトは、中国人ポスドクXさん、台湾人博士学生P君、米国人修士学生M君でした。
Xさんは2年ほど前に博士号を取得していましたが、この地を離れたくないようで、また、電子顕微鏡分析の「腕」がいい彼を先生も離したくないように見受けました。私より5-6歳年長の彼は文化大革命で辛酸を舐めた世代で、米国に来るまでに遠回りをした上、米国に単身留学後2年ほどして奥さんの渡米が許され、さらに2年ほどしてから、祖父母に育てられていた娘さんをようやく呼び寄せることができた、という苦労人でした。
ポスドクXさんとは後に、共著論文をいくつか書きました。
台湾人学生P君は私と同年で、台湾で学部と兵役を終えた後に渡米し、ミシガン大学で修士を取った後、イリノイの博士課程に入って4年目でした。
P君は思いやりがあり、米国生活に慣れない私にいつも的確なアドバイスをくれ、すぐに最も親しい友人になりました。同じく台湾人の奥さんと生まれたばかりの男の子と、町の郊外のアパートに住んでいました。
P君一家は既に米国永住権(Green Card)を取っており、学位取得後に、ニューメキシコ州にある国立研究所に職を得ました。
Santa Fe近郊の洞窟群の記事を書きましたが、連れて行ってくれたのはP君です:
もうひとりの住人M君は、高校フットボールで鍛えたがっしり体型の典型的な「気のいいアメリカ人」、若く、博士に進むつもりもなく、3人の東洋系オヤジに距離を置いている気配はあったものの、アメリカ生活について尋ねると親切に教えてくれた。
州立大学に入学したイリノイ州民(授業料が安い)M君は、博士課程の学生の過半数を非米国人が占める現状をどう思っているのだろう ── 時々そんなことを思った。
M君が1年ほどで卒業した後は、若い台湾人学生がやってきて、部屋は中国語(北京語)が飛び交う空間となった。
《屋根裏Dungeon》にはこの他、別の部屋に米国人学生に加え、インドやトルコからの留学生、韓国人ポスドクがいた。
修士の学生は約2年、博士の学生は当時卒業までに5年、Dungeonで暮らすことになります。
10年近く在籍し、まだ博士が取れない留学生もいました(さすがにオフィスはもらえなかった)。南米出身でしたが、それでも『クニ』には帰りたくないのだ。
(この人とはそれから20年ほどして、別の大学で偶然会った。結局博士は取れないまま、けれど研究室Lab. Manager ── 「技官」のイメージ ── としてなくてはならぬ存在になっていた)
留学生も外国人ポスドクもみな貧しく、食生活のこだわりもあるのだろう、多くがランチは自宅からお国の弁当を持参した。
私は弁当持参ではなかったので、独身トルコ人のM君とよくランチに出かけた。
日本の「学食」のようなキャンパス内カフェテリアは必ずしも安くはなく、それは、学外レストランと公平な競争をしなくてはならないとの方針で、市中物価に合わせている、とのことでした。
M君とよく行ったのはYMCAの中にあるタイ人経営のファストフードで、紙の皿に盛ってくれる、
・Bamboo Curry
・Pat Thai
を交互に頼んでいました。
Bamboo Curryは、かなり「竹」に近い硬い「メンマ」が入ったとっても辛いカレーがインディカ米にかかっていましたが、慣れるとこれが美味いのです。
今でも時々思い出し、食べたくなります。