『どうしても頑張れない人 ケーキの切れない非行少年たち2』
巷でよく聞くメッセージ。
「やればできる」「努力は必ず報われる」「頑張った人を応援します」
これらの言葉には、大きな落とし穴がある。当たり前といえば当たり前なのだが…。
「頑張れない人」は一体どうすればいいのだろうか。そもそも「頑張る」とは???
これは、「ケーキの切れない飛行少年」の続編にあたる作品である。
そもそも、世の中には「頑張れない人」や「やれない人」が存在することを知ってほしい。教育業界の人間は特にだ。
我々は努力したり頑張ったりしている人が好きだ。そういう人を支援したくなる。頑張っていない人たちを怠け者として扱い、レッテルを貼る。
しかし、単純なことながら気づいてほしい。
頑張れない人たちこそ、支援したくない人ほど支援すべきであると。
「やる気のある人を応援します」という言葉は、裏を返せば「やる気のない人はほったらかしにします」ということを宣言しているのと同じだ。
◯「頑張れ」はプレッシャーになる
頑張れ!と声をかけられて勇気づけられた瞬間は、読者の皆さんの人生にどのくらい生じていただろうか??
もちろん己を鼓舞する言葉として、頑張れは適切であろうし、応援という意味で不適切ではない。
だが、相手がすでに「頑張って」いたらどうする?
それ以上「頑張れ」と声をかけてしまうのか?
それは背中を押すことになるだろうか。むしろプレッシャーをかけているだけではないのだろうか。
頑張る人は自分で頑張れるし、頑張れない人は他の支援が必要だ。
本人が「頑張ります」と言ったら、「おう!頑張れ!」くらいのつもりでいいのではないのだろうか。
◯「頑張らないでいいよ」もおかしい
上記の内容は、社会的にも取り上げられてきた。
「頑張らなくていい」
「頑張らない生き方」
「我慢しなくていい」
こういった言葉がよく使われるだろう。
この言葉たちにも、大きな問題が潜んでいる。
常に頑張ってきて、キャパオーバーになってしまった子には有効だろう。一回くらい休む期間が必要な人がいるのも当然だ。
しかし、子どもが自分で「頑張る」前に、「頑張らなくていい」と親が言い続けてしまったらどうなるのだろうか…。
「やればできるからやらなくていい」や、「自分のペースでやればいい」という声かけが日常的にあった時、子どもは果たして「頑張る」だろうか。
なんと子どもは自律的に「頑張る」ことを放棄するのである。当然だ。影響力のある親から「頑張る必要がない」と言われ続けているのだから。
我々に必要なことは、「頑張れ!」ということでもなく「頑張らなくていい」ということでもない。
頑張るかどうかの折り合いをつけられるのは、子ども自身なのである。
◯頑張ったと認められる瞬間
頑張るという行為が他者から想起されるものではないことはわかっていただけたと思う。
しかし、社会からの評価はそうはいかない。
「頑張ったね!」と評価されるには、結果を出さないといけないのだ。
過程であっても同じだ。過程の中に残る何かしらの結果を見て、我々は評価する。
結局、結果なのだ。
社会的に成功すれば、それは頑張ったと評価されるのだ。
「頑張る」ということそのものが自分軸と他人軸に分けられており、それが合致した時に「頑張った」と評価を受けて納得できるのだろう。
これ自身は仕方のないことである。社会全体を変革できればいいのだが、それはまた別の話で。
我々は評価というものが自分の取り組みに比例するものではないということを知っておかないといけない。
◯我々に求められること
頑張るかどうかは本人次第である。では我々はどうすることが求められているのか。
答えは一つ。支援し続けることだ。特に、頑張れない人に。
「頑張れない人」や「やれない人」が最も支援を求めている。
彼らが多くの人間達に見捨てられ、見限られ、可能性を自分で潰してしまっている。そして大人に心を閉ざしてしまう。
「条件付きの支援」は時に我々を苦しめる。制約によって自制できることもあるだろう。しかし、「頑張れない」人は約束を破ってしまうことがほとんどだ。それも無意識的にだ。
人間誰しも失敗はある。我々は少し先に生きているだけだ。だから子どもが何度も何度も失敗しても、支援をやめてはいけない。
そこで支援をやめてしまうと、あなたも「頑張れない人」を見限ったことになる。それでは彼らは変わることができない。
そして教育に携わる人は、たいていが「頑張る」ことができた人である。異端児に苦手意識があって当然だ。
我々には根気強く、一人一人に合わせた支援をしていく必要がある。とても困難なことで、我々の負担も大きい。しかしながら、粘り強い支援が必要なのだ。それが教育や福祉の使命である。
どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2 (新潮新書)