『この世界の喜びよ』を読んで 〜純文学との明確な出会い〜
第168回芥川賞受賞作品の『この世の喜びよ』を読んだ。
今まで読んでいた本や小説とは雰囲気が変わり、我々に教訓を与えたり、何か光るものを明確に示してくれるわけではなかった。
少なくとも、私にそれを感じ取れるだけの教養がなかったといえる。
芥川賞とは、そもそも何なのだろうか。
公益財団法人日本文学振興会にこのような説明があった。
Q. 芥川賞・直木賞の違いを教えて下さい。
A. 芥川賞は、雑誌(同人雑誌を含む)に発表された、新進作家による純文学の中・短編作品のなかから選ばれます。直木賞は、新進・中堅作家によるエンターテインメント作品の単行本(長編小説もしくは短編集)が対象です。
つまり、芥川賞とは、純文学と短編作品の中から選出されるものである。
純文学は大衆文学とは違い、「芸術性」に重きを置いた文学である。
作者の興味関心に焦点がある。
我々に理解させようとか、何か学んでもらおうとか、そういう文学ではない。
つまり、読者による多彩な考察が生じ、読めば読むほど味の出る文学である。鉛筆片手に読み進めるべき文学なのだ。
一回読んだだけでは表層の理解すらも曖昧で、何か得たような気持ちにもならない。「一体何が言いたかったんだ?」とこのような気持ちになる。
そこに関心を持ってもう一度読み直せるかどうか。それが純文学への第一歩なのだろう。私はまだ純文学との向き合い方を知らなかった。
この本を読んで気付いたことは、独特な技術である。
二人称で語られる「あなた」視点。
「読点(、)」を多用することによって読者にじっくり読むことを促しているように思える。せかせかと読もうとする私には根気のいる作業になってしまったわけだが。
初読で主に発見したのはこの二つだ。「純文学を読む」という心つもりで向かっていけば感想も大きく変わったのであろう。しかし事実として私の中に蓄積されたのはたったこれだけだ。
純文学への向き合い方を、考えさせられる一冊であった。