『成瀬は天下を取りにいく』を読んで
この小説の中心人物となるのは、
成瀬(なるせ)あかり。
島崎(しまざき)みゆき。
最初は島崎からの視点で成瀬の行動やそれに対する島崎の評価が描かれている。島崎は成瀬のことを尊敬し、自分は凡人であると感じていた。成瀬に対し劣等感を抱くのではなく成瀬をおもしろい観察対象としてとらえていた。
そんな成瀬に振り回されていく島崎、このコンビが織りなす学生物語。あえて青春とは書かずにいこう。
そんな物語の舞台は、滋賀県である。私も滋賀に少しだけ関わりがあるので楽しく読むことができた。地元の方からすれば臨場感満載で、場面を想像しながら物語を動かせるのではないだろうか。
西武大津店が閉店するためそのインタビューに来るテレビ放送に映りに行こうとしたり、M-1グランプリに出たり…。成瀬は一般的にはなかなか踏み出せない、又は理解できない挑戦を繰り返す。
島崎はそんな成瀬に振り回され、西武大津店では最初は成瀬がテレビに映っていることを確認するだけだったのだが、最終的に2人でテレビ放送に映ろうとした。M-1グランプリも断れずに2人で予選に参加することとなる。
上記の2つは特に結果が出ることもなく、世間一般的な「失敗」で終わる。
しかし、成瀬はそれでいいと考えている。というかそのように読み取れた。
成瀬は本の中でこう語る。
「大きなことを百個言って、ひとつでも叶えたら『あの人すごい』になる。だから日頃から口に出して種をまいておくことが重要。」
成功しなくても、失敗に終わっても、自分のしたいことに挑戦する成瀬の姿勢は大人の我々でも見習わなければならない部分が多くある。
成瀬の挑戦は、そんなに大きなものばかりではない。些細な知的好奇心が先行した、そのような挑戦ばかりだ。
この些細な知的好奇心こそ、成瀬の原動力であり我々に不足しているものであると感じている。
そのような成瀬の無茶な挑戦に関わる島崎も、最初はネガティブな感情で動くのだが、いつの間にか成瀬を越えるほどの熱量で物事に向かい出す。成瀬が鼓舞するわけでもない。島崎が自分で気づき動き出すのだ。
その根源にあるものは何だろうか。
この書籍を読破してすぐの私が考えてみた。
それは、「せっかくするならいいものにしたい」という気持ちなのだと思う。
物事は、スタートするのに一番労力を使う。
しかし島崎にとってそのスタートは成瀬によって勝手にスタートさせられている。
成瀬のスタートは非常に軽やかである反面、さまざまなことに興味が湧くし、一度挑戦すると知的好奇心が満たされて島崎目線ではいい加減になる。非常に思春期の子どもらしく、人間くさい。
一方で、島崎はそうではない。一般的な中高生でスタートの足取りが重たい。だが始めてしまえば熱量が高まり結果的に成瀬を引っ張るまでになった。
この成瀬と島崎の第三者からの対比が、この物語を読んでいてとても興味深く感じられた。
他にも、中高生らしいやり取りや30年来の再会など盛りだくさんだが。ここでは省略する。ぜひ一度読んでみてほしい。
最後の章で、視点が成瀬に変わる。
島崎が滋賀を出て東京に行ってしまうことがわかり、成瀬は島崎の存在の大きさをさまざまな箇所で痛感する。
他の視点から見ると、成瀬は冷静で淡々と、また堂々としているように見えたが…。
成瀬も人間だった。
島崎が自分にとってかけがえのない存在であったことを認識し、今まで島崎を巻き込んできたことを反省するところまで考え込んでしまう。
我々もそうだと思うが、
人は失うまでその価値に気づかない。失敗するまでわからない。
それを成瀬ほどの人間も体感したのだ。
読破した感想をつらつらと書いたが、滋賀県を舞台に繰り広げられる人と人との関わり合いの中に潜む気づき、それによる成長を感じ取ることができた。
何よりも作品に引き込まれ、成瀬達の大学生バージョンも気になってしまう。
成瀬のように、赤の他人からも応援されるにはどうすればいいのだろうか。成瀬の強さを自分に還元できないだろうか。
「成瀬はそういうやつだから」で終わらせたくない。でも同じ土俵で戦える気がしない。私自身が成瀬の眼中には入らないかもしれない。
学生時代の悔しさを思い出し、苦く淡い夕闇となった。
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