わたしは誰かにとってのアホである。
これはもう、なんも言わん方がよいと思った。なんも伝わらんから。というかそもそも聞いてないから。なんじゃそらと思って、もう黙ってなんも言わんようにした。すると、余計に頓珍漢なことをのたまうので、これは一度文章にしてちゃんと伝えんといかんと考えて、こう書いて送った。
「ものごとの認識は、おおよそにしておくが賢明かと思います。あれこれと細かく分類しようとするからややこしくなるんだろうと。人間も同じで、男と女というだけでもあいだには深くて暗い河があるというのに、昨今ではもっと細分化しようとする動きが広がっています。それではただでさえ解けぬ問題がさらに難問と化し、人間の相互理解はますますと遠退くばかりです。ものごとを徒に複雑化する彼らの目的はいったい何処にあるのでしょうか。男も女も人間で、人間は動物です。動物は生き物で、鳥、樹、花と同じ生命体です。地球上の生命体の構成要素は水と有機化合物で、人間も半分以上が水でつくられているみたいです。半分以上が水ということは、それはもうほとんど水です。もしもエイリアンが地球のそばを通りかかったら、地上でいくら騒いでみたとて人類はぶよぶよと蠢く水としてしか認識されないかもしれません。彼らの星へは『あすこには一応、ざっくりと水だけはあったよ』と報告されるのでしょう。そしてある日、巨大なポンプを持って再び現れたエイリアンに我々は海水その他動植物もろともゴクゴクと汲み上げられ──といいますか、そもそも水すらも認識されないかも知れませんし、もっと高次元の存在には天体物そのものが度外視されている可能性もあります。とにかく、そんな三流SFのような飛躍はせずとも、問題は難問であるほど大まかに捉え、その本質を探り、解決策を講ずるが最善かと思います。」
返信は早かった。
「なる。ところでこのまえのハンバーグ弁当だけどっwそっちの袋にトッピングの期間限定デミグラスソース一つ多めに入ってなかった?wこっちに入ってなかったんだよねwwwとりま確認シクヨロ〜」
あ、だめだと思って、やっぱりもうなんも言わんようにした。書いた文章返せアホがと送ろうと思ったが、じゃあ期間限定デミグラスソース返せクソがと返ってきそうで、となれば、おそらく立ち直るのにまた四日くらいかかるからやめた。実際、ハンバーグ弁当に期間限定デミグラスソースはかけなかった。なにもかけずにそのまま食べた。ソース袋は容器の裏かビニール袋の底にでも貼り付いてのだろう。知らん。どこまでも知らん。
絶望して寝た。しかし絶望がすごくて眠れないので、散歩に出た。林道を歩きながら、こう考えた。
アホと働けば腹がたつ。
アホに諭せば流される。
アホと過ごせば憂鬱だ。
とかくにアホのすべてがただ憎い。
アホにアホというやつがアホと教わったから、なるべくいわないようにしてきた。アホがアホなことをのめのめとのたまうときも、そうですかふんふんと頷いてきた。下手に意見してアホを刺激すれば面倒くさいことになるし、その目を見ずにはやくうちへ帰りたいから。アホが「どうして目を見て話さない。目を見ないのはなにかやましいことがある証拠だ」とアホのひとつ覚えを吹っかけてきたことがあったが、そのときもやはり「あんたの心の裡が見えすぎるから、なんだか申し訳なくって見ないんです」とは言わなかった。黙っていたら、アホはふふんと笑った。アホに笑われたとてなんとも思わぬが、ふふんと笑いながらこちらを観察していることについては気に食わない。というか、気味がわるい。アホの眼差しは腹話術人形のごとく締まりがなく、食欲の失せるほど空虚で、どの角度から確認しようがためらいも羞らいもない。そのがらんどうに映るものは、おおよそぶくぶくと誤解を肥大させたこの瞬間のみであろう。うっかりと視線を合わせれば、この目前のアホとの浅ましき関係のみに意識が固定され、たちどころに思考が鈍る。──思考の鈍化、とりもなおさず古今東西の偉大な芸術家たちが命を賭して遺した文藝や絵画、音楽や彫刻など一切が遥か彼方へ遠退き、これまでいろいろな作品から受けたたくさんの感動、夜な夜な思いを馳せている謎に満ちた宇宙の神秘、母の愛、その他この世界に対するあらゆる修養的探究もすべてむなしく、俄然語彙が極端に乏しくなり、緊箍児を嵌められた孫悟空よろしく自己を喪失しながら、朦朧と地の底へ陥落していく絶望の事態。
況や、アホの前に芸術や哲学はまったく無力というより他はない。あまつさえ、あやまってアホと目が合うと、咄嗟になにか肯定的なことを言って遣らなければ済まないというお人好しな気持ちも起こる。これはおのれの弱さからくるものか、あるいは衆生縁の慈悲か。とかく、アホは否定されることについてだけは異様に敏感であるから「貴様はいったい何しにこの世へツラを曝しているんだ?解しかねるぞ、おい」と言いたい気持ちを堪えて、アホの満足しそうなことを言って遣る。お人好しに発した言葉ほど後々おのれを苦しめるものはなく、アホをあさってへ加速させるものはないのだが、一秒でも早くその場から離れるためには遣る方ない。『気違いにはなんでも許してやらねばならない』と書いたのはゾラだが、果たしてアホについてもその存在をそのまま受け入れてやらねばならぬのか──。
想念がここまで漂流したとき、足元にどんぐりがコツンと落ちてきた。拾った。ベンチに腰かけ、どんぐりを指先で捏ねながら、もういいやテキトーでと思った。「もういいや、テキトーで」改めて口に出すとすこし気持ちが楽になった。楽にはなったが、かろうじて絞り出していた意欲も失せ、ずっしりと身体が重くなった。姿勢を崩してベンチの背にぐったりと頭を凭せかけた。やがて指先にどんぐりを持っていることもだるくなった。どこかへ放る動作も億劫なので指を開いてそのまま落とした。そうして腕をだらりと伸ばしたまま惚けていると、不意にあいつの気配がした。あー来ると思ったが早いか、目をひん剥き、口裂けよろしく大口を開けた顔面だけのあいつがハァァァァァァァァァ!と迫ってきた。相変わらずのものすごい恐怖の笑顔、ものすごい笑顔の恐怖を以て。子供の頃は毎晩のように現れて、天井から鼻先すれすれまで落ちてきた。心底おびえながら母に助けを求めたものだが、いまでは追い払う術を知っている。意識へ入り込んでくる前に、こちらからアァァァァァァァァァ!と凄むのだ。ちょうど金縛りを解く要領で。ただ、最近ではほとんど現れなくなっていたから、その存在を忘れかけていた。だから恐ろしさよりも懐かしさの方が勝った。追い払わず、その嘲弄とも威嚇ともつかぬ形相を尻目に放っておいた。
どうすんだ、おまえどうすんだ
どうすんだ、おまえどうすんだ
どうすんだ、おまえどうすんだ
しばらくすると、あいつは溶けるようにして消えた。──ポケットの中でメール音が鳴った。
「期間限定デミグラスソースの件、わかった?w」
自意識を腹に落とす。両手をつかって、頭から腹へゆっくりとおろすようにして物理的に自意識を落とす。
「わかりません」
「え!?わからない?w」
「はい」
「期間限定デミグラスソースが入ってなかったってこと?w」
「すみませんが、わかりません」
「えっ!?どうゆうことwでも自分は期間限定デミグラスソースをかけて食べたんだよね?w」
「かけて食べていません」
「なにもかけずに食べたってこと?ww」
「はい」
「えー!?君って少しはまともかと思ってたけど、もしかしてアホなん?www」
もうなんも言わんように決めて2年くらいが経つ。あの頃はまだコロナ禍だった。じゃあなんで今回書いたのかというと、年末だから。年に一回くらいは良いでしょう。さようなら2023年、令和5年。どうかアホが読みませんように。