【『パンと牢獄』連載④】小さな灯明に祈りを込めるチベットの“バター灯明祭”
『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』の著者、小川真利枝さんが、ご自身が体験したチベットにまつわるあれこれを語る連載第4回め。今回は、“バター灯明祭”とも呼ばれるチベットの伝統行事についてです。
※『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』詳細
クリスマスシーズンで、町が華やかにライトアップされるこの季節、チベットにも同じように寺院がバターランプで輝く伝統祭事があります。それが、チベット仏教の改革者ともいわれるゲルク派の宗祖ジェ・ツォンカパの命日、チベット暦の10月25日に行われる「ガンデン・ガチュー」です。ことしは西暦12月10日でした。
※ラモ・ツォのふるさとラブランでのガンデン・ガチューの様子
チベット仏教は、大きく分けてニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4つの宗派があります。宗派の内容は不勉強でうまく説明できないのですが(すみません!)、わたしの偏った4つの宗派の覚えかたをご紹介します。
ニンマ派は、もっとも古い宗派で、日本でもよく知られている「チベット死者の書」はニンマ派の仏典。中沢新一さん著『虹の階梯〜チベット密教の瞑想修行』(平河出版社・1981年)もニンマ派の修行が書かれています。いわゆる密教系です。カギュ派は、過酷な修行をしたことで有名な仏教修行者にして宗教詩人であるミラレパが宗祖。ちょっと首を右に傾げ、右手を耳元に置いている像で知られています。サキャ派は、チベット自治区の南部シガツェにあるサキャが発祥の地で、そこには13世紀に建てられた南寺がいまも当時のまま残されています。ゲルク派は、ダライ・ラマ14世が所属する宗派。宗祖のツォンカパが、チベット仏教の教理や実践の一大体系をまとめあげたといわれています。そして17世紀以降、歴代ダライ・ラマが、チベット仏教・政治の両面における最高指導者となり、チベット仏教の最大宗派となりました。
そんなゲルク派の宗祖であるツォンカパの命日ともなれば、チベットのひとびとはみなで祈りを捧げ、供養を行います。ゲルク派の寺院をメインに、家の外観にも電飾やバターランプを灯し、夜の町や村を彩るのです。“バター灯明祭”ともいわれています。
ヒマラヤを越えたインドのダラムサラでも、その伝統はつつがなく続いています。わたしがダラムサラに滞在しているとき、ちょうど「ガンデン・ガチュー」がありました。どんなふうに夜が彩られるのか、ワクワクしながらチベット語の先生の家に行くと……先生の部屋の祭壇のダライ・ラマ14世がきらきらと輝いているではありませんか。
「綺麗でしょう!」と誇らしげな先生。先生は、写真のほかにもダライ・ラマ14世の新聞記事や雑誌グラビアを切り抜き、所狭しと祭壇に飾っています。「夜になったら、寺院に行ってみるといいわよ」と助言を受け、カメラを持って寺院へ行きました。すると、どこからともなく小豆色の袈裟を着た僧たちがあらわれ、お経を唱えながらバターランプにひとつひとつ火を灯しています。
あちこちから声明(しょうみょう)が聞こえ、その声のほうに目をやると、蝋燭が等間隔に置かれ、小さな炎がゆらゆらとゆらめいているのです。
寒さできーんとした空気にバターランプの甘ったるい香りが混ざり、まるで夢のなかにいるような心持ちに。夜が深まると、町には灯明だけが残り、闇夜を照らし続けます。
仏教では、灯明は、煩悩や世俗の混乱を照らすことから悟りの智慧(ちえ)に例えられています。その灯明を町中に灯すこの「ガンデン・ガチュー」。チベット仏教の最大の思想家、哲学者ともいわれるツォンカパの命日にふさわしい祭事です。
拙著『パンと牢獄』のなかにも、米国で暮らす主人公ラモ・ツォと娘ふたりが、部屋の祭壇にひっそりと蝋燭を灯し、ツォンカパの命日を祈るシーンがあります。夫ドゥンドゥップの亡命のさなか、本人と連絡が取れない状況にあったときでした。「安全な場所にいる」という情報だけ入ってきていたものの確証はなく、ラモ・ツォも子どもたちも落ち着かない日々を過ごしていた、そんなときです。ラモ・ツォがおもむろに蝋燭を取り出しお経を口ずさむと、申し合わせたかのように娘ふたりが後から続きます。クリスマスムードだった部屋が、途端にチベットの仏間に変わったようでした。
3人の灯す蝋燭は、チベットやダラムサラのそれとは比べものにならないほど小さく頼りなげでしたが、ドゥンドゥップの亡命への道を照らしているように、ひときわ輝いて見えました。
次回は、そのドゥンドゥップさんが米国に到着した2017年のクリスマスのときのお話をご紹介します。
●著者プロフィール
小川真利枝(おがわ・まりえ)
ドキュメンタリー作家。1983年フィリピン生まれ。千葉県で育つ。早稲田大学教育学部卒業。2007年テレビ番組制作会社に入社、2009年同退社、フリーのディレクターに。ラジオドキュメンタリー『原爆の惨禍を生き抜いて』(2017)(文化庁芸術祭出品、放送文化基金賞奨励賞)、ドキュメンタリー映画『ラモツォの亡命ノート』(2017)などを制作。 『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』が初めての著作。
『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』