今村均と『今村均回顧録』。昭和の陸軍にいた人のこと
今村均という、昭和の陸軍大将を紹介します。
今村均とはどんな人か。一言で紹介するなら、「仁愛の武人」でしょうか。
部下や目下の軍人を思いやる心が深く、身分や階級、人種の差を越えて誰にでも愛情をもって接することのできる優しい軍人でした。
今村均は無類の部下思いでもあり、年の離れた下士官や兵をわが子のようにかわいがりました。中央での出世コースや華々しい海外勤務より、地元仙台の連隊長を熱願したのも、かわいい部下たちと演習で泥まみれ汗まみれになりながら同じ時間を共有したかったからです。
部下の進言にもよく耳を傾け、耳の痛い直言をたびたびぶつけてくる副官に対しても、理にかなった進言とあれば素直に聞き入れる、そんな度量と懐の深さも今村均の得難い美質でした。
そんな上官だから、彼を父のように尊敬し、慕う部下も少なくありませんでした。
もちろん、これらのことは直接見て聞いたわけじゃなく、本人がしたためた自伝である『今村均回顧録』を読んで知ったことです。
その名の通り、この書は今村均の生涯をつづった伝記で、軍人時代のエピソードから、遭遇した歴史的事件の所感、指揮官として参戦した戦争体験、家族との思い出話、収容所での戦犯部下や敵国軍人、現地刑務官との交流まで、緻密かつ詳細に書かれた、昭和史や戦争史を学ぶうえでも大変貴重な一次資料です。
今村均は陸軍の中枢に身を置き、日本陸軍という組織の実態を知り尽くした人でもあるので、この書を読めば陸軍が抱えた「病相」の一端にも触れることができます。
そんな研究資料としての価値を持ちながら、この本の魅力は、「名将・今村均」の、一人の人間としての人情味あふれる物語が読めるところです。
戦争が終わり、被告人として軍事裁判にかけられた後、身柄を移送された先の外地収容所で送った日々のエピソードが、個人的には一番印象的で心に焼き付いています。
今村均はそこで同じく戦犯扱いの日本軍人や元部下と幽囚の身に甘んじつつ、判決が下るのを静かに待つ生活を送るのですが、彼らとの交流で生まれる無数のエピソードからは、温かくて慈愛に満ちた今村均の人間性が浮かび上がってきます。
そこには処刑の日を従容として待つだけの日本兵や、不当な判決を受けながら弁護や異議申し立てを頑なに拒否する元部下、独立戦争に身を投じて拘禁されたインドネシアのゲリラ兵、日本軍を裁く側にあるオーストラリア軍兵士や刑務所長など、今村と近しい立場の人から敵対感情を抱く人まで、多様なフェーズの交流があり、そのどれを抜き出しても、「人間・今村均」を感じる物語があります。
ある元部下の兵士に、死刑判決が下りました。その人柄をよく知る今村は、罪状にあるような素行を彼がしたとは思えず、頑なに弁解を拒む元部下を説得して事実を語らせます。話を聞いてみると元部下には死刑判決を受けるような立場にないことがわかりました。そこで今村は刑務所長にかけあい、裁判所による再調査と減刑を嘆願します。今村の熱意が刑務所長を通して裁判側を動かし、再調査の運びとなった結果、元部下の死刑判決は取り消され有期刑の減刑となりました。
今村均には常に自らのぶれない軸があったような気がそます。その軸は「仁愛」という尊い価値観によって支えられていた。そんな印象もあります。
『今村均回顧録』は、一人の人間の生きた記録として読み応えのある一冊です。軍人に対する見方が変わって新しい風景が開けるかもしれません。
その今村均は、明治19年(1886年)仙台市生まれ。陸軍士官学校、陸軍大学校とエリートコースを進み、英国大使館附武官やインド駐在武官、歩兵連隊長、関東軍参謀副長、陸軍省兵務局長、第五師団長、教育総監部本部長、大東亜戦争における第16軍司令官(ジャワ方面の攻略担当)などを歴任。最終階級は陸軍大将。
昭和16年にはじまった大東亜戦争では、第16軍司令官としてインドネシアのジャワ方面攻略を担当。攻略後は現地の占領行政も担い、軍の方針であった武断統治を改めて現地の事情に即した穏健な文知政治を断行。現地民の教育や官吏登用、スカルノなどの政治犯釈放など、軍部と衝突しながらも徹底して非武力の融和政策にこだわり、現地住民からも大きな信頼を勝ち取ることに成功。
日本の敗戦後は戦勝国による軍事裁判で有期刑となり、マヌス島(パプアニューギニア・マヌス州の島)刑務所や巣鴨拘置所にて服役生活。出所後は自宅で謹慎生活を送り、昭和43年に逝去。享年82。
『今村均回顧録』は、戦犯となり獄中生活を送る中で書かれた自叙伝。軍人生活六十年の総括と、著者の死生観・宗教観も余すところなく披瀝した活人の書。