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建国記念の日に科学的根拠はいらない、歴史的事実かどうかも関係ない

最近は何かものを言うたび「そのエビデンスは、データは、ファクトチェックは」と返される世の中です。

昨日記事にした2月11日の建国記念の日なんかは、もう格好のやり玉で、「日本書記の神武天皇説話に科学的根拠はない」「その日に日本が建国されたというのは歴史的事実じゃない」と、下手したら鬼の首を取ったような批判の矢が飛んでくることもあります。

しかし、何も最先端の治療薬開発や宇宙の原理法則の話をしているわけでもなく、遠いむかしの伝説上の人物の神話を対象とする建国記念の日に科学を持ち込むなんて、ちょっと意地悪だなあと思わないでもありません。

というか、神話を科学の対象にしようとする態度こそ非科学的に見えてなりません。

真に科学的な態度とは、世の中のさまざまな事象に対して、科学を問うべきか問わざるべきか、きちんと見分けられる確かな目のことを言うのではないでしょうか。科学的かどうかを問題にすべきでない対象までやり玉に挙げて金科玉条のように振りかざすのは、現代特有の病理と言えるかもしれません。

日本書記の記述に科学的な信憑性などなく史実として扱う代物でないこともわかっています。日本書紀の史実性を疑問視する声は江戸時代の中期あたりから聞かれるようになり、活発な研究と議論がなされました。

日本書紀には、暦も文字もなかった頃の上古代の故事も詳細な年月日が当てられ記されています。その編者の思考過程、暦と紀年の設定方法はどのようなものだったのか、江戸時代の本居宣長やその弟子の伴信友らによって質の高い研究がなされ、それを受けた明治時代の中頃の研究によって、「これは讖緯(しんい)思想によるものだ」と結論づけられたのです。

日本書記の暦と紀年設定の根拠となった讖緯思想とは、辛酉革命論とも言い、中国古来の一種の運命論です。

讖緯思想では、「干支で数える60年に一度の辛酉の年に大変動大革命が起こる」とされます。さらに、60年を21回重ねた1260年目の最初の一年の辛酉の年は世の中が一変して新しい時代に入るとされます。神武天皇はその新時代に入る辛酉の年に即位していることが、日本書紀にある暦構造を緻密に研究した結果、判明したのです。

日本書紀の編纂は天武天皇の発意を受けた舎人親王が総裁として編集作業の指揮をとり、三代後の元正天皇の時代に完成したのですが、日本で最初に国史の編修事業に着手したのは推古天皇の代です。推古朝九年に朝鮮から暦が持ち込まれ、学僧について暦学を学んだとの記述があります。そして推古朝二十八年に「天皇記および国記、臣・連・伴連・国造など、その外多くの部民・公民らの本記を記録した」とあり、地方豪族や部族もかり出された国家の一大事業だったことがわかります。

神武天皇即位を大変革の辛酉の年に設定したのは、推古朝で国史編纂事業を任された史家の手によるものと考えてよいでしょう。出来事が起きた年月日を詳細に記すには暦学が必要であり、当時は中国由来の讖緯思想に頼るしかなく、当時としてはそれが「科学的」だったのかもしれません。それはともかく、暦が導入され、冠位十二階が制定され、聖徳太子が仏教保護の方針を諸大夫に示した推古朝九年が辛酉の年であり、初代天皇の即位の年はそこから1260年前の辛酉の年に設定されたものとの推断が可能です。これが初代天皇即位の年として日本書紀に記述され、明治時代の紀元節創設にともない、日本の紀年に位置づけられ、さらには日本独自の紀元「皇紀」誕生につながりました。

(ついでに言うと皇紀換算では今年は2685年になります)

1260年周期の運命論と無理矢理結合させているものだから、天皇の寿命が人間生理を超えて長すぎるとか、天皇家に使えた武内宿禰など300年も生きてお前仙人かとか、はなはだしいのになると仲哀天皇は父親の日本武尊の没後30年して生まれているなどなど、伝奇小説並みの超常現象があちこちで散見されるわけです。

(もっとも紀年が書かれていない古事記に出てくる天皇の寿命も人間生理から考えられないほど長いという問題がありますが)

こんな調子ですから日本書紀に書かれていることの史実を検証しようと江戸時代の学者や研究者が熱心にがんばったのですが、ほぼ口伝や口碑、伝承情報に頼った記紀編集当時からしてすでに正確な史実の追及などおぼつかず、それから一千年以上時代が進んだ江戸の世においてはなおさら手の届くはずもなく、なんとか書記編纂のバックボーンにあった学問の存在を突き止め、皇紀もさしずめ差し引き600年くらいが妥当だろうとの結論を導くところまでが限界でした。

日本の建国紀年や皇紀の史実性にあやしいところがあるのは確かですが、では私たちが何の疑問もなく使用している西暦は、科学的根拠や歴史的事実をもとに設定されていると思いますか?

西暦は、正式名称を「キリスト体現紀元」と言います。神の化身として生まれ変わったキリストが誕生した年を紀年に数えられているのが西暦です。

まずキリスト教徒でもない私たち日本人が普通にこの西暦を使用しているのもよく考えたら驚きですが、キリストが神の化身であること、それがいつ誕生したのかどうやって科学的に検証し歴史的事実を確認したのでしょうか?

この西暦がはじめて使用されたのは6世紀ごろといいます。ローマの僧院長エキスギヌス・ディオニシウスが、「全能の神である救世主イエス・キリストが降誕し人間と化した年を紀元とするのがふさわしい」と提唱。これを受けローマ法王庁が命令を出してイタリアで用いられたのがはじまりです。ヨーロッパ全域で西暦が採用されるのは9世紀に入ってからと言われます。

キリスト体現をどの時点に求めるかも地方や民、教会宗派によって分かれるみたいで、誕生(12月25日)に限らず、天使ガブリエルが救世主降誕を告知したマリア処女受胎の日(3月25日)キリスト復活の日を体現と考えるなど、立場が違えば見解も異なります。キリストの生誕が何月何日、処女受胎が何月何日でなど、数百年後の人たちが正確に突き止めるは至難の業で、相当な苦心があったことがしのばれます。

ちなみに年始が現在の一月一日になったのは、紀元前46年にユリウス・カエサルが制定したユリウス暦にもとづくもので、ローマ帝国が採用したのが起源です。それが世界各地で普及するのも決して古い話じゃなく、英国では7世紀から13世紀までクリスマスを年始と定めていた記録があり、フランスなどは復活祭を年始とし、1663年1月にシャルル9世の勅命により現在の一月一日を年始に定めています。

ついでに言うと世界では西暦以外のさまざまな暦が存在し、インド教徒にはインド暦、イスラム教徒にはイスラム暦、ユダヤ教徒にはユダヤ暦など、他にもたくさん国や民族、宗教によって使用される暦が存在します。暦が違えば紀元も異なり、歴史の長さもバラバラ、西暦とは比べものにならないほど長い歴史を持つ民族もいて、ユダヤ民族などはユダヤ暦に照らすと今年は5786年になるそうです。

それぞれの国や民族が長い歴史をかけて保持してきた紀元が完璧に事実に基づくものなんておそらく一つもないでしょう。あの西暦ですらも、4~7年のズレがあることがさまざまな研究からわかっています。仏教徒の紀元などはシャカ入滅の異説が60にも及ぶといい、いちばん古くて紀元前2422年、新しいほうで紀元後330年と、とんでもない開きがあります。これは極端な例ですが、仏教暦みたいに紀元をいろいろ言う人がいたらたまりません。わからないことはある程度研究調査したところで決着をつけ、この年を紀元としますというふうに政治的に決めるしかないのです。

西暦のズレは後世の研究で判明したそうですが、広く普及した後で今さら覆すのは混乱を招くだけですし、社会が壊れます。特に不便はないからそのまま継続することにしたのでしょう。そこでいや事実はこうだからといって間違いを無理に正そうとするのは果たして生産的と言えるでしょうか。

アメリカやオーストラリアのような人工国家、植民地から独立した国などを除き、国家建設のはじまりをいつにするかの話などはどこ国もどの民族も似たり寄ったりの事情があるということです。日本の紀元や皇紀に歴史的な正しさを追求したがる人は、ぜひキリスト教徒やユダヤ教徒にも同じ調子で挑みかかってほしいものです。

ここで私たちが問うことは、科学的な正しさでしょうか? 大昔に生まれて大事に守られてきた神話にまで事実性を求め、絶対無比の史実にたどり着くまでひたすら追究することでしょうか? 

それよりも大事なことは、今みたいに便利な道具や機械がない中で、むかしの人は苦心して国の歴史のはじまりを調査したこと、後の時代の人が誤りに気づき、少しでも史実に近づこうと必死に研究し事実の解明に近づいたこと、強国に支配されないよう国家と国民が一つにまとまるため国家建設の起源を定めたこと、これらに思いを馳せ、先人たちの努力に敬意を払うことではないでしょうか。

古事記や日本書紀、紀年や皇紀は、確かに史実とは言えないかもしれません。しかし、日本という国で長く残り続け、受け継がれてきたのは歴史的な事実です。これを次世代にも継承できるかどうかは、今を生きる私たちの問題であり、ただの神話だからといってその価値を認めない時代が続けば、そのうち消滅するでしょう。物理的には残っても、日本人の心から消え去ってしまえば同じ事です。

ドイツが生んだ19世紀の偉大な歴史家ランケは、豊かになって文化的にも繁栄を誇ったヘレニズム諸国がなぜ、貧しい小国に過ぎなかったローマに滅ぼされる運命を辿ったのか、これについて「これらの諸国は国家独自の存在原理をもっていなかった。ただ軍事力と経済力だけを基盤に生きていた。反対に勝者となったローマには、国家独自の原理があった

そして、「その原理を喪失したとき、ローマもまた内部から瓦解してついに滅んだ」と。

ランケは国家独自の存在原理について、定義することは不可能といいつつ、「その存在はみなが直感し知覚し、同感できるもの」と言っています。

精神論ばかりもいけませんが、それを軽視して目に見えるもの、数字となって現れるものばかりに信を置き、絶対視する風潮に支配されると、自分たちのよって立つ世界はそのうち消えてなくなるだろう。この警鐘が日本に当てはまらないことを祈るばかりです。

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