【歴史企画に挑戦!】細川幽斎になり切って明智光秀に弔辞を書く

いかに文章のみで、歴史を“おもしろく、わかりやすく”伝えられるか?

「歴史って何か苦手、むずかしそうだし…」という人にも届けたい。

コンテンツを工夫し、フレキシブルな切り口で攻めて、興味を誘いたい。

そのようなテーマを持って取り組んでいるので、noteではあくまで歴史系コンテンツにこだわっています。

さて、表題の件ですが、現在大河ドラマ「麒麟が来る」をやっていますね。

その主人公は"本能寺の変"を起こした明智光秀。

何せ「逆臣」「謀反人」ですから、あまりよいイメージは持たれません。

これまでの歴史ドラマの主人公といったらたいてい織田信長や豊臣秀吉といったメジャーな人物で、明智なんてそれらの存在を引き立たせる脇役というのがお決まりでした。

それが大河の主人公を張るようになるのですから、これも時代の移り変わりでしょうか。

そんな明智光秀に対し『弔辞』を書く、という企画をやってみたいと思います。

どんな悪人も、弔辞ではよく書かれます。

その人がもっとも美しいように、もっとも素晴らしいように、もっとも光り輝いているように書くのが弔辞です。

片言隻句や行間からも、その素晴らしき人となりや味わい深い一生が浮かび上がってきます。

だから、ここでは悪口は一切なし、マイナスな批評もなし、全力全開で明智光秀に賛辞を送ります。

弔辞を読む人ですが、これはだいたい故人が生前もっとも親しくしていた人だったり、深い交流のあった人などが選ばれますよね。

明智光秀のことをよく知り、生涯通じて深い交わりを持っていた人物は誰かとなったとき、思い浮かんだのは細川幽斎。

明智光秀にとってもっとも気心の知れた友人といってよく、本能寺の変を起こした後真っ先に「これから一緒にやろうぜ!」としたためた手紙を送った相手でもありました。

「いや拙者はそんな役どころではない」と固辞する幽斎に対し、明智の親族あたりが「いやいやそんなことおっしゃらず、何せあの人あんな事件起こしたものだから誰も引き受けてくれないんですよ」「…ならば仕方あるまい」みたいなやり取りがあったと想像しつつ、細川幽斎に弔辞を読んでもらいましょう。


弔辞~細川幽斎から明智光秀へ~


まずは度々の覚書(※明智光秀が細川幽斎・忠興親子に協力を呼びかけるため送った手紙)を送って我ら父子を頼られたこと、深く痛み入る。貴殿の厚意に報いること叶わず、これまでの友情を袖にするような始末となってはなはだ心苦しいが、我らは長らく同じ風雪の中をくぐり抜けた同志、苦労も喜びも分かち合ってきた。この気持ちはくみ取ってくれることと存じる。

何の因縁か、貴殿と拙者ははじめて面を合わせたときから、浅からぬ関係となった。通い合わせる絆を太くしたものは何であったろう。思い起こせば我らには3つの通ずるものがあった。

ひとつ、京の気風をその身にまとっていたこと。ふたつ、信長さまから恩顧を受ける身となったこと。みっつ、ともに幕府再興の夢を抱きて行動しながら、義昭公に見切りをつける定めにあったこと。

幼少より将軍家のお側仕えを奉じてきた拙者と違い、貴殿は荒々しい山峡幽谷に囲まれた美濃の育ち、それでいて公家に対する理解は一方でなく、博識で思慮も深かった。武辺のみで押し通す武将らとは一味も二味も異なる風格を帯びていた。聞けば越前の称念寺で四海の古典を友に十年の雌伏を過ごしたとのこと、学問に刻苦した歳月が深い教養を与え、文人としての器を大きくしたに違いない。

京の都を追われ、明日の世過ぎも見えず流浪の身であった義昭公と、お供をしていた拙者とを温かく迎え入れてくれたのは越前の領主朝倉殿であったが、立つべき場所と進むべき道に明かりを立ててくれたのは、ほかならぬ光秀そなたであった。

貴殿の働きにより、義昭公は入洛という宿願を叶え、拙者は信長さまから扶持をもらう立場にあずかることができた(※光秀は足利義昭と織田信長の仲介役を務め、義昭・幽斎主従の上洛入りを助けた)。そして貴殿も、信長さまにその才を見込まれ知行をもらい受ける身となった。ふたりとも幕府将軍家のお供衆に名を連ねながら、覇業に挑む信長さまにも仕えるという、窮屈な立場に立たされたのは何の因果か。この苦衷がいかばかりのものであったか、我らふたりにしか分かるまい。

天下統一の大業をもくろむ信長さまと、幕府再建の宿願を抱く義昭公は両雄並び立たずの関係、ほころびが生じるのは明白であった。安土の山から吹き下ろした時代の風は、夜明けの光明をはらみながらあまねく大八洲(※日本のこと)に行き渡ろうとした。一度吹いた風がもとの場所に戻ることはない。東から西へ巻きねじれることもない。義昭公に見切りをつけたのも、さからえぬ時流に乗ったまでのこと。無念なるは道半ばで潰えた幕府再興の夢。光秀も同じ胸中を引きずったことだろう。

確かに拙者と貴殿は、内に流れる奔流の水質は同じであったかもしれぬ。しかし、川底に埋まる地金はまったく異質であった。幕府管領の家系である細川家は、幕府滅亡とともにその使命を終えたといえよう。対して明智はもとより美濃の名門土岐氏に仕える一門。その出自をたどれば清和源氏に結び付く。いわば天下取りをも狙える位置にあった。その誇りは、信長さまの圧力と秀吉の追走に激しく抵抗したのではなかったか、光秀よ。

主と臣が転倒するも世のならい。忠義仁道廃れ後に残るは謀りと裏切りばかり。義昭公に見切りをつけたのも、裏切りといえば裏切りといえよう。宇治槇木島にて貴殿が弓を引いた先には、かつて近侍した義昭公があった。貴殿の内にあった忠義を溶かしたもの、それは戦国乱世を貫いた理不尽ではなかったか。

貴殿は誠に、明智の家名に恥じぬ戦いを見せ、度重なる武功を挙げた。老練で隙がなく、八上城や亀山城を攻め落としたときの采配も見事であった。戦場を駆け抜ける武人として強く、またやさしくもあった。今堅田城で戦死した家臣を弔うために、供養米を寄進した心遣いと思いやりは、その証といえよう。

一国を治める領主にふさわしい資質である。そのように家臣に寄り添う武将をいまだかつて知らない。それはすなわち、文人として身につけた幅の広さがそうさせたのだ。

家臣思い、一兵卒に至るまでいたわり尽くす心遣いの性格は、市中洛外に響きわたるほどであった。叡山の山門領であった近江丹波を、貴殿は実によく治め、領民の信頼も勝ち得た。

そのようなことから、明智家臣団の結束が固かったのもうなずける。貴殿は信長さまを討つ真意を、重臣たちにすら直前まで打ち明けなかった。当日未明に馬の藁沓が外されてはじめて歩卒らは本能寺襲撃に向かうことを知った。

それでも一隊は動揺することもなく、取り乱す様子も見せず、息を整え、月夜の光を破り、静かに桂川から洛中の市街地へ進み出た。ここにきて兵卒どもも主君と運命を共にする覚悟を決めたのだろう。そう覚悟させたのは言うまでもなく光秀への忠誠と信頼が厚かったからである。

信長さまを討つという謀は成功を収めた。が、秀吉と雌雄を決した山崎の戦いは敗戦に終わった。なぜ敗れたか、賢いそなたならばすでに気づいているはず。狭隘の地である大山崎に本陣を置かなかったからだ。

ここに秀吉の大軍を引き込めば兵力差を打ち消すこともでき、おもしろい展開になったことだろう。だが、そなたは大山崎を戦場とせずのお触れを出していた。ここが戦火と化せば寺社も町屋敷も大きな損害を被る。つまり、貴殿は天下を分ける戦の勝利でなく、町人どもと取り交わした証文の固守を選んだのだ。

光秀、そなたは武人として大業を成すにはちとやさしすぎた。明智光秀という男が太平の世に生まれたならば、まさしく天下人にふさわしい治世を築けたに違いない。文人としてその才を生かす道を選んでいたならと、友として夢想せずにはおられぬ。

討つ人も 討たれる人も 一滴 宇治の下流に 名しか残らん


■明智光秀
驚天動地の信長襲撃事件をやらかし、明智の名を歴史の一ページに刻み付ける。不名誉かつそこはかとない哀愁を誘う揶揄語「三日天下」の生みの親ながら、軍旗と槍を持たせればソツなく敵を攻め、筆と法をもって治めれば安らかなる政治を実現するなど、名将・能吏としての器を十分に備えた。明智氏はもとは名門・土岐氏に仕える奉公衆、源氏を出自に持つエリート。心の中で、「オレだって天下を狙っていい」と密に野望を燃やしていた可能性あり。

■細川幽斎(細川藤孝)
武芸に通じながら花鳥風月のこころも知る、文武両道を極めた戦国武将。古今和歌集の伝授など文化振興に一方ならぬ功績あり。足利義昭が将軍になれたのもこの人のおかげ。朝倉義景の居城・越前一乗谷にて出会った(再会?)明智光秀とは連歌友達になるなど、深く長く交わる。信長光秀に討たれるの凶報に接するや即座に断髪、信長への変わらぬ忠誠を誓う。それは光秀との友情を切り捨てた瞬間であった。



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