ゲームオーバーからの再起動〜苦い体験を糧にして〜
先日、結婚11周年を迎え、その記念に宮古島へ行った。
そこで泊まった宿がとてもよかった。雰囲気や接客はもちろんのこと、レンタル用品も豊富でそれを使って家族で大いに楽しめた。
特に盛り上がったのが、昔のゲームだ。同世代の妻と昔を懐かしんだり、子どもたちと一緒にゲームを楽しんだりと、非常に充実した時間を過ごせた。
今回のnoteでは、久しぶりにゲームをしたことをきっかけに考えたこと、思い出したことなどを綴りたい。
ゲームに現れる時代の色
最近はまったくやらなくなったが、僕は小さい頃からゲームが好きだった。5歳くらいからファミコンで遊び、マリオカートやスーパーマリオをはじめとするゲームに夢中になった。
ちょうどその宿にもロックマンやストリートファイターIIなど、僕が幼少期に遊んでいたゲームがあり、「小さい頃にやっていたゲームだからできるだろう」と思っていたが、これがなかなかむずかしく、一面すらクリアできない有様だった。
そして「そういえばむずかしかったな」と小さい頃のことを思い出しながら、ゲームをしていると、ふと画質やイラストではなく、ゲームのつくりそのものがとても昭和っぽいことに気づいた。
たとえばスーパーマリオをしていても、何回も繰り返していると、いつどのタイミングでジャンプをすればいいかがわかってくる。敵の動きは変わらないので、繰り返しプレイすることでどんどん上手くなっていくのだ。
つまり、一定のパターンがあって、それをひとつずつクリアしていけば、いつかは成功できる仕組みになっている。この点にとても昭和らしさを感じた。
ゲームは良くも悪くも、時代背景を映し出してるのかもしれない。
一方で今のゲームは、コンピューターや家族、親しい友人など、ある程度動きを予測しやすい相手と対戦していた昔のゲームとは違う。オンラインで世界中の人と一緒に遊ぶことができる。
そうすると、対戦相手がどんな人かはまったくわからないし、予測もできない。要するに、パターンが作れないのだ。
だからこそ、昭和のゲームに慣れきった僕にとって、今のゲームはとてもむずかしい。子どもたちに一緒にやろうと誘われることもあるが、とても太刀打ちができない。やはり生まれた時からオンラインが当たり前の子どもたちと、そうではない僕たちとは根本的に何かが違うように感じる。
何はともあれ、妻や子どもたちと、昔懐かしいゲームに興じることができて、とても豊かな時間を過ごせた。
留年生活とゲームの日々
ゲームには、苦い思い出もある。
大学時代、沖縄を出て上京した僕はとにかく遊び呆けていた。最初の一年は、バイトもしていなかった。奨学金を一種と二種の両方借りていたので、何もしなくとも毎月口座に16万円ほど入ってきていたからだ。
両親からは、2年目の学費の足しに貯蓄しておくように言われていたのだが、実際には生活費と遊びにほとんどを使ってしまった。もちろん、学業は疎かになってしまっていた。こうした自堕落な生活をしておきながら、親に対しては「勉強が忙しくてバイトをしている暇がなかった」と言い訳をするほどのダメっぷり。そうして遊び倒した結果、留年することとなる。
自業自得ではあるのだが、留年すると年下の学生と一緒に授業を受けることとなる。1度の留年はまだよかった。ひとつ上の学年には友だちもいるからだ。しかし、2度留年すると、同級生が卒業してしまい友だちがいなくなっていく。当時の僕にとってはこれがとにかく苦痛だった。苦痛だから学校に行きたくない、でも行かないと卒業できない。こうしたジレンマを抱えて葛藤した挙句、結局学校に足が向かず、留年を繰り返すこととなってしまった。結局、三度目の留年が確定したのち、大学を中退した。今思えば、本当にダメなやつだった。
この時期は、現実から目を背けるように、当時ハマっていたサッカーゲームの『ウイニングイレブン』をはじめ、とにかくゲームをして時間をやり過ごしていた。
ドン底からの学び
この留年を繰り返した日々は、僕のなかに強烈な体験として残っていて、いまだに年に数回、留年が決まる瞬間の夢を見る。
「学校に行かなければ…でも行きたくない…」との葛藤からはじまるのだが、結局、毎回留年してしまって絶望的な気持ちで起きるので目覚めはよくない。それどころか最悪だ。しかし僕は、定期的に見るこの夢をダメダメだった自分を思い出し、反省する機会を与えられているのだと捉えている。
また、この経験があるからこそ今があるのだと思える機会でもある。
もし真面目に大学に行っていたら、リンクスを継ぐことは確実になかっただろう。大学に入ったばかりの頃の僕は、父がどんな事業をしているのかもよく知らなかったし、専攻していた化学を活かせそうな商社や食品メーカーに就活をして、そのまま東京で就職するつもりだった。留年することがなければ、おそらくそうしたはずだ。きっと今とはまったく違った人生になっていたと思う。
今妻と子どもがいて、想いを持ってできる仕事があって、明日死んでも後悔がないほどに僕は日々の生活に満足している。それにあの時、思いっきり怠けたおかげで、怠けてしまう人の気持ちも痛いほどわかるようになった。結果論ではあるが、怠け尽くして遊び尽くしたあの日々も、あってよかったのだと思える。
こうした経験があるからこそ、僕は人生において経験や体験を重視しているのかもしれない。
もし僕の子どもたちが「若いうちに東京で遊び尽くしたい!」と言ったら、もう少し詳しい理由は聞くだろうが、基本的にはお金を貸すと思う。そして経験した内容によっては「返さなくていい」と伝えるつもりだ。
僕自身、金銭や時間をはじめとする諸々の制約が何ひとつなければ、また遊んでみたい。3〜5年くらいかけてすべての国を巡ってみたい。そうしていろいろな文化に触れたいし、できることなら月にも行ってみたい。
子どもが義務教育を終えたら、世界一周は難しくとも、一年ほどかけて子どもたちとたくさんの国を巡るのもいいかもしれない。きっと国内だけでは得られない経験ができるはずだ。
さて、今回は、僕のどうしようもなかった時期の話をした。この経験を、こんなふうに「今に活きている経験」として話せるようになったのは、代表になってからだ。それは代表になったことで、覚悟を持って人生や仕事と向き合うようになったからではないだろうか。
それまでは、根拠のないどうにかなるという気持ちを持って生きていたし、この気持ちのせいで怠けてしまっていたように思う。
「怠け」の正体は、「根拠のないどうにかなるという気持ち」なのだ。
僕はリンクスの代表に就くことで、この怠けの元を排除して、覚悟を持って生きることができるようになった。事業を前に進めるためには、根拠が必要だ。これからも代表として、リンクスの事業をより成長させ、拡大し、リンクスに関わる人たちの人生を豊かにしていきたい。
▼僕の自己紹介noteです。興味をお持ちいただいた方は、読んでいただけるとうれしいです。
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書き手 えなりかんな
聞き手・編集 サオリス・ユーフラテス