エーミール・シンクレアとは何者ですか?何歳ですか?どこに住んでいるのですか?〜ヘッセ『デーミアン』
『車輪の下(で)』より、ぐっと後に書かれた本作は、第一次世界大戦がきっかけでヘッセの作風をおおきく変えたとされるもの。
『デーミアン』より以前と以後のその変化はかなり広く、一般的にも認められているようだけれど、すくなくともわたしにとっては(『車輪の下(で)』との比較でいえば)
同じ作品世界、地続き、自然に感じられるのだけれど、きっとわたしの読みが甘く浅いからなのだろう。
『車輪の下(で)』以上に、主要な登場人物たちに「厨二」の匂いを感じる点においても。
いやいや、このままだと「ヘッセ = 厨二」のイメージがついてしまうので、ここで終えずに『ぺーター・カーメンツィント(郷愁)』も読んでみよう。
これもKindle Unlimited 読み放題だし。
もちろん、そんなことは全然ないんだけれど(それでも「厨二」臭がするのは、わたしにとっては間違いない)。
はじめてヘッセを読んだとき(『シッダールタ』だった)の衝撃はいまもなお。
いやいや、『デーミアン』にもどって。
本書は1919年に「エーミール・シンクレア」が書いたものとして『デーミアン ある青春記』として出版されたものの、新進の作家(のデビュー作)に与えられる文学賞を受賞することに「なってしまい」
ヘッセが、自分が作者であることを明かして(受賞資格がないので)同賞を辞退したっていう経緯があったりもする(変名をつかったその動機はいかに)。
日本では『車輪の下(で)』がよく知られ、読まれているけれど(実際、ヘッセのドイツ本国と比較すると、その売上は10倍くらいの差があるらしい)それを別にすれば、本書『デーミアン』は初版が出た年だけで八刷、1925年にはなんと「六十六」刷に達したほどのベストセラーだったとか。
一般の読者だけでなく、同業者や批評家たちにも響いたようで
あのトーマス・マンが、発行者に対して
「エーミール・シンクレアとは何者ですか?何歳ですか?どこに住んでいるのですか?(中略)ひさしぶりになにか新しいという以上の感銘を受けました」
とまで評していたらしい。
もちろん、時代のおおきく異なる我々が「いま」読んで、おなじような感想、印象、満足を得られることはないにせよ、それだけの力をもった作品であるからこそ、そうした違いを超えて「いま」も読みつがれているのだろう。
光文社古典新訳文庫の特徴のひとつでもある、読みごたえのある充実した解説と訳者あとがきも、これまたすばらしい。
それによると、原文はトーマス・マンのように、ひとつひとつのセンテンスが長いようで、そのあたり(日本語訳にあたって)の苦労、工夫がうかがえるのもたいへん興味深い。
ただひとつ残念なのは、本書に出会うには、わたしはあまりに老いた。