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【読書日記】平和について考えるための3冊

注:選書の基準に政治的立場や思想は関係ありません。記事が不適切であることが分かれば削除します。ただ、この3冊が世界平和に寄与するはずだという思いから、この記事を書きました。


1:読書日記①馬場朝子『ロシアのなかのソ連 さびしい大国、人と暮らしと戦争と』(現代書館)

 
 著者の馬場朝子さんは、1970年よりソ連に6年間留学、その後NHKでロシアに関するドキュメンタリー番組を数々製作、そして退職されてからも2012年よりロシアに5年間住んだ経験がおありで、ロシアだけでなくウクライナにも訪れ、ロシア人、ウクライナ人両方を友に持っている、ロシア(ソ連)の暮らしのにおいから政治までお詳しい方だ。

 一九七〇年のソ連との最初の出会いから半世紀が経つ。ロシアは確実に変わってきた。しかし(……)たまにあと戻りする。それは社会主義と資本主義というまったく相反する価値観のなかで、迷いつつあるべきかたちを探し求めているようにも見える。

はじめに より

 馬場さんの、ロシアという国への眼差しは、古くからの友人に向けるそれに似ている。馬場さんの眼差しで語られると、歴史に不慣れな方でも、すんなりと頭に入り、心に届くと思う。

 国のかたちとして歴史上初めての大実験だった「社会主義社会・ソ連」。本書ではその実態と、それが現代のロシアの奥底にでんと腰を据え、たまに覗かせてくる現状を、日々の暮らしのなかに見つけてみる。歴史を振り返ることで、いまを見るだけではわからないロシアの姿が見えてくる。

はじめに より

 私はソ連時代を全くもって体験していない。社会主義という言葉は知っていても、暮らしの実態を知らない。だから『ロシアのなかのソ連』を読んで、興味深く思ったことを記録しておきたい。

 社会主義国ソ連では、憲法に男女平等が明記された。世界で最初に中絶を合法化、離婚制限は撤廃され女性の自立が促された。ほとんどの女性が働くようになり、女性はソ連の全労働者の五一%を占めていた(……)女性が働くための社会的制度も整備されていた。労働時間は一日八時間、残業はない(……)産休は産前産後八週間ずつ、育児休暇は一年で生後三年まで延長が認められる。保育園は完備され、待機児童はいない(……)給料は完全に男女同一賃金で、離婚し子どもを引き取った際は、自動的に夫の給料から養育費が差し引かれる。

p.89-90

 私は勝手に「社会主義」は理念だけなんだと思っていたので、『ロシアのなかのソ連』を読んで、恥ずかしながら驚くことが多くあった。

 しかし、男女平等の裏には、第二次世界大戦で二七〇〇万人の犠牲を出したことで招いた男性の労働力不足があって、社会主義革命においても何千万もの犠牲がでているという、ソ連の悲惨な歴史があることも馬場さんは忘れず指摘する。

 確かにソ連社会は息苦しかったけれど、すべてがマイナスだったわけではない。競争のない社会の穏やかさ、国家の大きな手のなかで迷うことなく人生を先まで見通せる安心感があったことも事実だ。

p.184

 ただ、こういった「ソ連ノスタルジー」が、今のロシアのナショナリズムを駆り立ててもいる。冷静な視点は常に必要だ。

 さて、ここからはロシアとウクライナの戦争についてだ。

 私は戦争を始める国は、強い国ではないと思う。
 国としての弱さ、不安定さを露呈させないために隣国に敵意を向けるのだと思う。
 馬場さんも、ロシアの国としての不安定さを、タイトルにもある「さびしさ」だと言っているのかもしれない。
 ヨーロッパに憧れ続けるが、地理的には70%以上がアジアにある、どちらの仲間にもなれない、「さびしい大国」。
 
 馬場さんはロシアの国としての不安定さについて、以下のような指摘をする。

 ロシアの人たちは国土が攻撃されることにとても敏感だ。歴史的にモンゴルのチンギス・ハン、フランスのナポレオン、ヒトラーのナチスドイツに攻め込まれた記憶は、しっかりと人びとに染み込んでいる。それはロシアの人たちに「私たちは世界から狙われている」という強い被害者意識を植えつけ、再び攻撃されるのではないかという恐怖に常に怯えているように見える。

p.151

 こういった被害者意識は、2022年2月21日のプーチン大統領の演説にも見て取れると馬場さんは言う。

 ※プーチン大統領の演説の抜粋
 私たちと隣接する土地に、それは私たちの歴史的領土だが、そこに私たちに敵対的な「反ロシア」がつくられようとしている(……)私たちの行動は、我々に対してつくり上げられた脅威、いま起きていること、そしてさらに大きな災難に対する自己防衛である。

p.176

 あくまで自分たちは被害者で、自己防衛のための戦い。
 その三日後の2月24日、ウクライナへの軍事侵攻が始まった。

 ウクライナとロシアは切っても切り離せない関係だと馬場さんは言う。ロシアからウクライナへと入国した際も、違う国に来たとは、感じないほどに。

 それならばと私は思う。どうして、切っても切り離せない関係なのに、その相手を傷つけるのか。自分の体の一部だと言うなら、どうして殴りつけるようなことをするのか。
 言うことをきかない自分の体を殴りつけるなんてことをしても、事態は好転しないのに。

 最後に、世界平和のためには、ロシアだけでなく、自国を含め、世界の国々が抱える国としての「不安定さ」(ロシアにおける「さびしさ」)を見直すことが、その第一歩になると、『ロシアのなかのソ連』を読んで思った。

2:読書日記②岡真理・小山哲・藤原辰史『中学生から知りたい パレスチナのこと』(ミシマ社)


 岡真理さんはアラブ文学・パレスチナ問題専門、小山哲さんはポーランド史専門、藤原辰史さんは現代ドイツ史専門の方だ。
 パレスチナ・ポーランド・ドイツ、この3つの共通点は何か。

 ユダヤ人、イスラエル。そしてホロコースト(アウシュビッツ)だ。
 
 今もなお、イスラエルによるパレスチナへの民族浄化のためのジェノサイド(大量殺戮)が続いている。そしてアウシュビッツ強制収容所も、ユダヤ人へのジェノサイドのための施設だった。
 
 イスラエルは、自分たちの民族の悲劇と同じことをパレスチナ人にしている。
 西欧が生んだ植民地主義の暴力が、今もなお続いている。
 西欧はそのことに見て見ぬふりをしている。
 欧米が自ら後押しして建国したイスラエルの暴挙を見て見ぬふりをしている。
 
 これが『パレスチナのこと』の問題提起の一つだ。

 そもそも、ジェノサイドはもちろん、パレスチナの地に自分たちの国を武力によってつくること(シオニズム)はユダヤ教の教えに反している。

敬虔なユダヤ教徒はシオニズムを批判し、これに反対してきました。シオニズムは、神が救世主を遣わしてもいないのに、武力によって人為的に国家をつくることで、神がユダヤ人の試練として与えた離散に終止符を打とうとする、神の教えに反する行為、思想だからです。

p.49

 しかし、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドは、欧米や日本のメディアでは巧妙に隠されていたと岡さんは指摘する。

 ここからは『パレスチナのこと』からの引用を連続で載せる。
 私は『パレスチナのこと』を読んで、自分が無知であることを痛烈に思い知った。
 実際に本を手にする時間が無い方も、この引用部分だけはぜひ読んでほしい(読むのが辛いかもしれない内容が続きます)。

 イスラエル政府は、十月七日の「ハマスの攻撃」について、パレスチナ人戦闘員たちがやってもいないことをでっち上げて世界に向けて喧伝しました(……)その後の議論も「ハマスによる残忍なテロ云々」を前提にしなければ次に進めないという言論状況が生まれてしまいました。

p.29-31

イスラエル政府の発表後、アメリカの主流メディアの報道、そして日本のメディアの報道は、メディアの報道は、ひとえに、このジェノサイドが植民地主義の暴力なのだという歴史的事実を徹底的に抑圧、隠蔽するためのものとして機能しています。
 イスラエル政府は十月七日以降のガザに対するジェノサイドを正当化するために、「ハマスが赤ん坊四〇人を殺して、うち十数人の首を切り落とした」とか、「赤ん坊をオーブンで焼いた」とか、「野外音楽祭で集団性暴力があった」と主張しますが、これらはすべて、遺体収容にあたった民間ボランティア団体のメンバーによる虚偽の証言であったことが判明しています。

p.31-32

 今、ガザで生起していることは、ジェノサイドにほかなりません。攻撃開始から一二九日目の現在(二〇二四年二月十三日)、イスラエルの攻撃によるパレスチナ人の死者は、二万八三四〇人を超えています。遺体が確認されている人たちです(……)実質的な死者は三万五〇〇〇人を超えています。負傷者は六万七九八四人(……)二三〇万人いるガザ地区住民の八〇%にあたる一九〇万人が家を追われました。

p.25-26

 現在、パレスチナ側の死者は四万人を超えた。


 二〇二三年十二月十八日、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HBW)は、パレスチナ自治区ガザの人びとを意図的に飢餓に陥れるという戦争犯罪を犯しているとイスラエルを非難しました(……)少なくともガザ地区の五十七万六〇〇〇人が飢餓一歩手前でありガザ北部にいる二歳未満の幼児にかぎると、六人に一人が栄養失調や衰弱した状態にあると訴えています。

p.156

 パレスチナ側の攻撃でも、民間人が殺されていないわけではない。
 ただ、イスラエル政府は一向に犠牲者の数を明らかにしようとしない(p.33)。

 私は恥ずかしながら『パレスチナのこと』を読むまでは、イスラエルの攻撃がジェノサイドにあたると理解しきれていなかった。ただネットニュースで爆撃による死者数を確認するだけだった。

 そして私たちは気づかない。
 イスラエルとパレスチナの関係性が、かつての日本と朝鮮・台湾・中国の関係性と類似していることに。

 これが『パレスチナのこと』の、二つ目の問題提起だ。
 
 「ハマスの攻撃」は、イスラエルからの脱植民地化を求める抵抗である。
 かつての朝鮮や中国で起こった、日本からの独立運動と同じである。

 そしてイスラエルは脱植民地化運動に対し、過剰とも言える暴力で報復をしている。
 日本もかつて、同じように行使した暴力。

 この類似性に、私は今の今まで全くそのことに気づかなかった。
 原子爆弾、東京大空襲、沖縄戦、日本は確かに深い深い傷を負った。あれはジェノサイドだった。忘れてはならない。
 だけど世界平和のためには、国が負った被害による傷だけでなく、加害による傷にも目を向ける必要があるのだと、『パレスチナのこと』は力強く語る。

 すべてがつながっているのだという「知」を与えてくれるのが人文学であり(……)こうした歴史的視座なくして、アジアの平和も、世界の平和も無いと思います。

p.40

 それと、国際連合にも触れておきたい。
 国際連合の機能不全は、ウクライナ問題にもかかわるからだ。

 国連の安保理常任理事国が拒否権をもっているということ。そのためにイスラエルは、これまでの数々の国際法違反、戦争犯罪、人道に対する罪を犯してきましたが、そのたびにアメリカが拒否権を行使するため、一度たりとも裁かれたことはありませんでした。
(……)
 パレスチナの平和、ひいては世界の恒久平和が実現されるためには、この政治的に不公正な現行システムそれ自体が解体され、世界政府であれ、世界連邦であれ、真に平等で公正な、新たな世界が構築されなければなりません。逆に言えば、現行の体制が延命しつづけるかぎり、パレスチナにも、そして世界にも、本当の意味での平和は訪れないということです。この世界のありようそれ自体が問い直されなければなりません。

p.34-35

 最後に、『パレスチナのこと』の表紙の果実は、パレスチナで栽培される「ジャッファ・オレンジ」だそうだ。地下水を引っぱってつくられ、甘味が強いらしい。

 いま、「ジャッファ・オレンジ」をパレスチナの人びとが栽培するのは難しい。どうしてか。『パレスチナのこと』を読めば分かる。ぜひ、手にとってほしい。 そして同じミシマ社の『中学生から知りたい ウクライナのこと』もあわせて読みたい。

3:読書日記③カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(中山元訳・光文社古典文庫)


 読書日記と言いつつ、この一冊はすべてを読み通せていない。本当に読むのなら、私の頭脳では何年、何十年かかってしまうと思う。だけど少しだけ、私が理解できたところだけでもご紹介させていただきたい。

 イマヌエル・カント(1724-1804)はドイツ観念論で有名な哲学者だ。
 『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』は、カントの計5編の論文集である。

 『永遠平和のために』という論文で有名な内容が、「国際的な連合」の提案だ。

 他国との関係のもとにある国家が(……)戦争だけが支配する状態から抜け出すためには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである(……)たえず拡大し続ける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な流れを抑制するのである。

p.182-183

 しかし、カントの願った国際連合は現実のものになったが、現状、殺戮を止める抑止力にはなっておらず、世界平和は未だ訪れない。

 実は『永遠平和のために』は、カントの認識が逆説的であると、翻訳者の中山元さんは指摘する。

 カントのこの論文は、永遠平和を目指すための提案でありながら、平和そのものが人間の間に実現するとは想定しておらず、反対に戦争こそが人間をたえず進歩させると考えているかのようである。カントは戦争を憎むが、戦争なしの完全な平和状態では、人間が進歩する原動力が失われると考えるのである。

p.366

 カントによれば、「世界連合」、さらにその先にある可能性としての「世界王国」が現実になれば、完全な平和が訪れるかもしれないが、文化、宗教、言語の差が失われていき、結果的に人間社会全体の力を弱め、結局は無政府状態に陥るのだという(すみません、このあたり理解が不足しているかもしれません)。

 分離と競争、つまり「戦争」を、人類の進歩のために、カントは否定しきれなかったのか?

 中山さんはこう指摘する。

 この逆説は解決されることはない。しかしこれはカントの思考の内的な矛盾であるよりも(……)人間の宿命を反映したものだというべきだろう(……)人間の歴史は悪の歴史であり、完全に善である人間は一人も存在しないのである。人間は最高善を目指しながらも、つねに根源悪を実現する可能性のもとで生き続けるのである。

p.367

 カントの道徳哲学における人間像は、

 人間は善く生きることを目指す勇気をそなえているにもかかわらず、
 根源悪としての自己愛に負けてしまう。
 だけど何度だって「善く生きたい」と思いなおせる。

 徹底的な厳しさと、どうしても人間を信じたい人間愛を前提にしているのが、カントの人間像である。
 カントは戦争と平和の関係性についても、この人間像に基づいて考えているのかもしれない。

 「永遠平和」は目指すべき善の理想だが、「戦争」を完全に無くすことは、善と悪の間を行ったり来たりする宿命の私たち人間には、不可能なほど困難である。

 じゃあ、「永遠平和」なんて言葉、意味ないじゃないか。
 いや、それは違う。
 理想があるから、私たちは道徳的に生きることをやめられない。
 頑張って、頑張って、頑張った結果、理想を達成できなくても、理想の価値は失われない。
 私はそう信じている。

 最後に、カントのもう一つ有名な論文『啓蒙とは何か』から引用して、この長すぎる粗削りで拙い記事を締めたいと思う。

(※「啓蒙」という概念は「植民地主義」との関わりが深いが、ここでの引用はただ、「未成年から大人になるために」という意味合いで、次の文言を引用したい)

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜け出ることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ(……)啓蒙の標語というものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち、「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

p.11

 はてしなく遠い「永遠平和」を目指すために、私たちに必要なのは「知る勇気」であると、私は勝手にカントからのエールだと思って、これからも読書を続けていきたい。

 補足:「知る勇気をもて」は古代ローマ詩人ホラティウスの文章『エピストラス』からの引用だそうだ(p.27)。

 「知る勇気をもて、始めよ。正しく生活すべき時期を先延ばしする人は、川の流れがとまるのを待つ田舎者と同じだ。川は流れる。永久に、滔々と流れる」


お読みいただきありがとうございました。

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