私の生と死について
毎年12月27日は自分の死と生について考える日だ。19年前いまわの際から戻り、娘と生き返った日だからだ。一番簡単に言うと娘の誕生日で、その直前に事故に遭った。
偶然その前の日にお参りした近所の神さまと守護霊のような父は私と娘を守ってくれたが、ちょっとだけ間に合わず、私は足が悪くなった。
思い返せば、その当時の私は身の丈に合わない無理をしていた。生まれつきののんびり屋なのに、一刻を争うマスコミ対応の広報ウーマンで、かつ妊婦だった。半月前に産休に入ったときには、疲労困憊だった。そして駅で気を失った…。いろんなことを気づかせるために、全ては起こったのだ。
その後、ずっと私は何かを取り戻そうとしたり、効を成そうとしていた。今思えば馬鹿げている。ただし、頑張った若き自分は愛おしい。当時の私は会社の評価を気にしていた。ずっと、子どもの頃から成績表を気にして生きてきて、それが絶対だったからだ。
だが、やがて少しずつちょっと違う気もしてきた。例え、成績表に反映されなくても、仕事の正解がわかるようになった。会社の成績表なんていろんな制約があるのだ、気にするなんて全く馬鹿馬鹿しい。
一方で、家庭でもあれが出来てない、これが出来てないと思いながら、生活してきたが、それでも19年前一緒に生き延びた娘はいい子に育ち、私が子育ての一区切りと思っていた高校卒業を迎えて、本当にほっとした。
私は家事は全くダメで、母が主婦を引退してから、家庭を切り盛りするのに苦労した。そして、その間、「何年も家が片付かないのはなぜか」ずっと考えざるを得なかったが、今日それは「もしかしたら片付いたら全ての終わりが来るような気がしていたのかもしれない」と以前から薄々思っていたことを確信した。前には、「幸せだった昔を追体験したいから」という考えが理由として浮かんだこともある。
長い間、なにかを成し遂げたい気持ちにとらわれていたが、今は全くそんな必要がない気がしている。今はとても楽しくて、やりたいことをやっている。長い会社員時代の仕事のお陰で、自分がやりたいことをやるに足るスキルは身についた。何が正しいのかも自分なりに判断できるようになった。
やっと、今「子ども時代から会社を卒業するまで」の楽しかった過去に執着する必要を感じなくなった。やっと仏教でいわれるような、今だけを生きる意味が少しわかったような気がしている。だから、これからは家も片付くかもしれない。そして、今が楽しいからいつ死んでもよくなった。何も残しておかなくてもよくなった気がする。
今これをやることに値打ちがあると思うことをやればいいのだ。あとは、母、夫、娘、義理の両親、友人たちが幸せになるように、もうちょっと奉仕しよう。
誕生日を迎えた娘に望むことは、他のお母さんと同じ。元気なおばあさんになってほしいということだけ。
そう言いながら、私の家の環境はまだ、混沌としているけれど、来年には全てがすっきりしてほしいな。