外国人に生け花を(4)
外国人に生け花を教える難しさ
「生け花上達のコツ」ということで書き出したところ、外国人に生け花を教える難しさ、という話に変わっていったのでした。
外国人にいけばなを(1)
外国人にいけばなを(2)
外国人にいけばなを(3)
今回はその話の続きです。
私の所属する流派の場合、5冊教科書があり、1、2冊目は基本型、以後、自由花ということになります。おそらく、日本人にはそれでいいのでしょう。私のクラスでも日本人の場合、あまり問題はありません。
しかし、外国人の場合、このカリキュラムでは5人に1人くらいしか目的のレベルに到達できません。もちろん、これは私のクラスでのことであり、私の指導力不足という限界があるのは承知していますが。
自由花は問題花!
自由花に入っていくと、多くの生徒がおかしな作品を作り出します。しかも、その生徒独特のクセのようなものが毎回表れます。貧弱だったり、色使いが混乱していたり。単に力強いだけだったり。造花で作ったような生命感のない花だったり。
結局、基本が身についていないのでしょう。私が生徒に与えるコメントは、以下のようなものが多くなります。
「綺麗な作品だね。でも、綺麗さを作品の目標にしてはいけない。生け花の原則に則って制作しましょう(これは綺麗な作品だけど、生け花と言えないよ)」
「生け花は数学だ。日本の美学は数学だ。君の作品のどこに数学があるんだ」
「弱い!君は瞑想していない。花と君の間に大きな距離があるんだ。もっと花と話しなさい (だんだんイライラしてきます)」
「花でお遊びして何になる。なんのために生け花やっているんだ!」とまでは、直接は言いません。だんだんコメントが厳しくなっていくのです。
私の生徒作品はフェースブックに紹介していますので、よければご覧ください。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery
第一の対策は
そこで対策です。いくつか考えて実践しています。
ひとつめは基本型の徹底復習。これは不評です。やりたがりません。
しかし、完璧な基本型を作れれば、かなり効果があるのではないかと思っています。そのような基本型を持てることが流派の最小限の存立条件でしょう。
ともかく、だまし、だまし上級者(実力での上級ではなく、カリキュラム上の上級)にも基本型の練習をさせています。
ひとつの事例(ケーススタディ)
ここで特に難しいと感じた生徒の事例を紹介します。
つまり特殊なケーススタディ。外国人全般に当てはまるわけではないでしょう。
この生徒の作品は
ともかく強いだけ。
ともかく花がどっさりあるだけ。
そこにはポエトリイがないのです。
そこで、私の対策は、基本型の徹底復習。
基本型を選んだのは、この生徒の問題の核心が、
バランスのおかしさ、
間のおかしさ、
調和のなさ、といったことで、基本が身についていないということだったからです。
おそらくその方針は正しいと思います。
その方針が有効だった生徒も出ていますから。
指導の経過
10回位やってもらおうとしたのですが、とにかく抵抗します。
「今回は基本型の中でも、その応用型をやる」とか、
「今回は特別な花器を使う(基本型には不適)」とか。
とにかく一番単純な基本型!
皆が一番最初に習うシンプルな基本型を完璧に作ってくれと
言っているのですが、聞いてくれません。
これはなんだろう?
どうも、この生徒にとって基本型を今更やらされるというのはプライドに関わることであるようなのです。個性的な人気者ですが、周りの人を圧倒し、すごい!と思われることに喜びを感じているようです。
さらに、どうもこの生徒は、基本型を美しいとは思っていないようでもあります。
しかし、基本型には生け花の美しさのすべてがあります。そこを身につけないことには、まともな生け花が作れるわけはないのです。
実は基本型はとても難しいのだよと説明してもなかなか聞いてくれません。
この生徒にとっては自分が美しいと思うものしか作れません。
それはシンプルな美しさを持つ作品ではなく、
ともかくゴテゴテ、やたらうるさく、強いだけの作品なのです。
自分、自分、自分で溢れかえっています。
お手上げだ
ふと思いました。これはお手上げだ、と。
生け花は人間修行だと言われます。
謙虚さのない人には無理なのかも。
生け花に求めるもの、つまり学ぶ動機が違うのです。
他からの賞賛や、自分の劣等感の補償を求めることだけが目的では、
生け花の本質には到達できないのではないでしょうか。
日本人が数世紀をかけて作ってきた美の基準、そこへ至る方法。
まずは、それに敬意を払うこと。
自我流の入り込む余地はないのです。
特に、初心者にとっては自己を滅却してお手本を真似しつつ
基本を身につけることが最優先。
無私の境地でしょうか。
先生の言葉に素直に従うことも大切でしょう。
我が強すぎないほうがいいでしょう。特に初級段階では。
ここは日本人が得意とするところかもしれません。
しかし、そういう態度が身についていない人には難しいでしょう。
そうして基本型とともに、
基本的な生け花の原則を身につける。
そのあとで初めて、自由型を楽しんだらいいのです。
基本型などつまらん、自由型だけで行こうというのなら、生け花など習う必要はないのです。
教えるのが大変です。これがここまでのとりあえずの結論。
あちらこちらで自我流生け花
しかし、さらなる問題は、話がここで終わらないということ。
実は、上記のような自我流の生け花作品を作り続ける人が海外には少なからずいらしゃいます。
面白いことに、それが評価されたり、
お金を払う人があったり、
時に何かの賞を取ったりします。
日本でなら自我流では評価されず、いずれ淘汰されてしまうのではないでしょうか。
しかし、周囲も生け花とは何かよくわかっていない状況ですと、自我流生け花も淘汰されず、ああ、こんなものかと受け入れられるわけです。
しかし、それが悪いことでしょうか?
おそらく、通常の基準からすれば、生け花とは言えないでしょうが、本人は生け花だと主張します。日本の流派から師範やらなにやらの肩書きを手に入れたりもします。周りの方も評価します。
とすれば、放っておくしかないのではないでしょうか?
(たくさんの人に教える立場になって欲しくないなあとは、こっそり思いますが)
「こんなの生け花じゃない」などと言えば、喧嘩になるでしょうし。
(そういえば私もよくそんなことを言われますが)
他人が評価を得ているのに、ケチをつけるようなことは人間として恥ずかしいことですね。
また、時に、そうした方が、とても味のある作品を作ることも稀にあるのです。
海外における生け花の状況はなかなか面白いのです。
補記
もしかすると、外国人(ことに西洋人)への生け花指導の難しさには、自然観の違いが根本にあるのかもしれません。日本人の神道的な自然観 (自然を客体視しない)への共感が生け花の修得には必要になってくるのではないか、これは大きな、そして、かなり魅力的な仮説です。いけばなって何?1、2、3参照。