相田みつを氏はプラグマティズム的ではないんだなあ
「人間観」をテーマにした連載を六回にわたって続けてきた。
六回続けて、だいぶ疲れてきた。
読者のみなさんも疲れてきたのではないか。
そこで、今回は別のテーマの文章を書く。「プラグマティズム的な文体」についてある。
「えっ。それは一つ前に繰り返し論じていたテーマだ。」と思った人がいるかもしれない。
その通りである。
哲学とは、くどいものなのだ。
くだらない哲学はある。しかし、あっさりした哲学は無い。
あっさりしていたらどうなるか。
言葉の裏づけに
事実を求めるのが
プラグマティズムなんだなあ
ただし
これでは相田みつをである。
哲学は、相田みつを調ではいけない。あっさりしていてはいけない。くどくないといけない。
だから、くどく論じ続ける。
プラグマティズムは言葉を疑う思想である。言葉を疑うために事例をぶつける思想である。
当然、事例を必要とする。事実が分かる文体を必要とする。
例えば、小学校の授業案を検討するとする。検討するためには授業で何をするのかが分からなければならない。事実が分からなければならない。
次の文言はどうか。
子供にバスの運転手さんの仕事を考えさせる。
「考えさせる」と概括言葉でまとめてしまっている。
これでは授業で教師が何をするのかが全く分からない。どのように「考えさせる」のかが分からない。
それに対して、次の文言はどうか。(注1)(注2)
【発問】 バスの運転手さんは、どこを見て運転していますか?
これならば、授業で何をするのかが分かる。
この発問に対して、子供は答えるだろう。「前を見ている。」「サイドミラーを見ている。」「バックミラーを見ている。」「バックミラーでバスの中の人を見ている。」……
「どこ」と見ている場所を問うことで、具体的に運転手の仕事を考えさせるのだ。
この文言ならば、授業の事実が分かる。
授業で何をするのか分からない授業案がある。それでは、その授業の検討ができない。望ましい授業か、そうでない授業か分からない。
そうではなく、授業での指導言を実際に言う通りに書いた授業案が必要である。それならば、その授業の検討が出来る。
事実が分かる文体が必要である。事例が分かる文体が必要である。
授業の事実が分からない授業案はプラグマティズム的ではない。
プラグマティズムは事例を重視する思想である。事例が分からない文章はプラグマティズム的ではない。
文体は思想の表れである。
文体が重要である。文体は思想を表す。
プラグマティズム的な文体がある。事例を重視する文体である。次の文章で論じた。
プラグマティズム思想は文体に表れる。
だから、次のように言える。
相田みつを氏はプラグマティズム的ではない。
相田みつを氏の文体は事実を明らかにする文体ではない。事例を重視する文体ではない。だから、相田みつを氏はプラグマティズム人ではない。(注3)
(注1)
「発問」は教育界の用語である。
授業で「教師が学習者に問いを発すること」を「発問」と呼ぶ。
「質問」は発する側が答えを知らないことがある。しかし、「発問」する教師は答えを知っている。知っていながら、授業を構成するために「問いを発する」のである。それが「発問」と「質問」との違いである。
(注2)
これは、有田和正氏の有名な発問である。
詳しくは次の本を参照のこと。
有田和正『学級づくりと社会科授業の改造 低学年』明治図書
有田和正『社会科発問の定石化』明治図書
(注3)
もちろん、この論述は相田みつを氏の作品を批判するものではない。