いのちを感じる旅をしよう〜わたしだけの巡礼路を歩く〜
こんにちは、全国巡礼中のしょうけいです。
ふと思ったんですけど、いろんな人が巡礼しやすい世界を身近なところから作っていきたいと思ってます。
宗教の力が弱まった現代、宗教的聖地を巡る人たちは減少傾向にあると感じています。でもそれは、宗教の中に内在するエッセンスに価値がなくなったのではなく、それらの智慧を宗教の世界が人を囲い込む力が衰えたのだと思います。
ですが、私たちがより良く生きていくエッセンス自体はますます求められていく状況下にあると思います。
また、それらのエッセンスは、お金を払ったら得ることができる類いのものでもありません。ビジネスとして扱うこともできますが、本来、誰しもに開かれているものです。
私は全国巡礼をしながら、巡礼は「いのちを感じる旅」だと思うようになりました。さらに、わたしが場所場所を巡るということは、自分以外の命の数々の存在を感じることだと感じています。
本来私たちは、誰しもが依存しながら生きています。ですが、つながりを感じることを失う中で、孤独感を抱いたり、頼る場所がなくなったり、「無縁社会」に生きざるを得ないとなると、苦しいです。
「私たち」の中には、人間だけでなく、あらゆる生きとし生けるものが含まれます。私たちはすでににぎやかな命がひしめく世界に生きている。それを思い出すことが「巡礼」という物の見方を通して見えやすくなるのではないかと感じています。
自分自身が生きているということ。さまざまな命あるものが世界に息づいていること。それを知りながら、自分の身体を無視しないこと。そういう巡礼の旅を、しやすくなるといいな。
私は以前、エルサレムの嘆きの壁という場所を訪れたことがあります。その時、宗教を"生きている"人たちの存在に圧倒されました。エルサレムの地は、宗教対立の象徴の場でもあります。自分の信仰や信念との違いによって、凄惨な出来事も起きてしまう。それを表していると思います。
大なり小なり、人の信仰、信念の違いによる対立は日常茶飯事です。私も人と対立することも多いです。いやぁ、人と関わるのは難しいっすね。
ありがたい関係もあれば、胸くそ悪い関係もありますが、とはいえ、それら全てが同じ地球に乗った運命共同体。いい関わりのあり方および棲み分けのあり方を模索していけたらと思います。
巡礼者という垣根を越える存在
そんな信仰、信念を越えて、それぞれの人たちとの垣根、自然と人間の垣根に"巡礼者"としてなれるのではないか?そんなことを思います。
私も1人の巡る人でありながらも、他の方々の巡りを助ける働きを身につけていきたいと思っています。
「この世に生まれて、よかった」と思うことができる人が、増えたらいいなと思います。
巡礼を続けることができるのも、皆さんのおかげさまです。
皆さんが自分の命を、そして、周りの命あるものたちとの関わりを豊かに味わいながら生きていくことができますように。
心から、祈っております。
😆