読書記録「モモ」
こんばんは。市の体育館でやってる体操教室、月曜日の教室は今日でおしまいのため、改めて先生から近隣の体育館でやってる教室のアナウンスがありました。家から近い体育館なんだけど、水曜日って行けそうで行けない曜日だったりします(高尾山に行くことが多い)。
それにしても、「シェイプアップ教室」と「リズムダンス教室」って、何が違うんだろう? その体育館に申込みに行くときに聞いてみます。1月からはどちらかに参加予定です。
ミヒャエル・エンデ「モモ」(岩波書店)
いい歳した大人が読む本なんですかね……。読まないよりはましだと思います。子どもの頃読んでたら、どんな感想を抱いてたのか、過ぎ去った年月のことを考えても仕方がありません。
昔から「モモ」の存在は知ってました。「はてしない物語」と作者が同一人物だってことを知ったのは、いつだろう? 中学生くらいでしょうか。
こういう話だということも、当時は知りませんでした。ただただ、「はてしない物語」の分厚さと重さ(本の重さではない)にビビってました。
私自身、平日はあっという間に過ぎてゆくと感じています。今日は月曜日で、気づけば木曜日になっている。それで何をして過ごしたかというと、録画していた朝ドラを夜に見るとか?
そんなことを言ってたら、時間どろぼうに時間を奪われてしまう。「モモ」の中で、時間どろぼうに時間を奪われるのは、決まって大人である。最初に床屋が出てきた。言葉巧みに時間を計算され、無駄のないように時間を削減されてゆく。
この話に出てくるモモは、親も家もない不思議な女の子である。廃墟となった円形劇場だった建物に住んでいる。話をするのも聞くのも好きで、大人にも子どもにも愛された。
特に子どもとは空想力を発揮し、楽しく遊んでいた。ところが時間どろぼうが出てきてからは、子どもたちも空想力を必要としない遊び道具を持ってくるようになった。ラジオとか、ロボットのおもちゃとかである。
大人目線でいうと、モモの空想力と話を聞き出す力が、大きな要となっている。こんなに鋭い子どもはそうそういないだろう。
そしてクライマックスのモモは、実に勇敢に時間どろぼうに立ち向かってゆく。広く知られた本だから多くは書かないけれど、仲良くしていた大人がいなくなっても(時間どろぼうの餌食にされた)、ひとりではなかった。
結局、人間は「忙しい忙しい」といいながら、スキマ時間を使って何かしようとか考えてしまう。何かを考える時間とか、一見無駄に見える時間がないと生きてゆけないのでは?と思った。最初に時間どろぼうの餌食にされた床屋は、仕事で「あの時間が無駄」などと、言葉巧みに与えられていた時間を奪われていった。
小学生からでも読めるくらい、ひらがなが多めの本だったけど、果たして著者の意図することが理解できるのだろうか?