見出し画像

五月三十五日

こんばんは。西武ライオンズの話をしてますが、「弱いチームを応援する私って健気だわ♡」ということはまったく考えていません。ここからはい上がると信じています。いつまでも弱いチームに甘んじてほしくありません。信じていても、チームは思うようにいきません。

とはいえ、やっぱり野球の話はあまり反応よろしくありませんね。知識がそれほどないのに書いてるからかもしれませんが。これも来年に向けた課題とします。

昔、あるところでケストナーの「五月三十五日」という作品の(上っ面だけの)紹介を書いたのですが、岩波少年文庫にはなっていないようです。新しい訳でまた読みたい!と思ってます。
昔の訳が図書館の児童書にあると思うんで、それで読め!と言われるかもしれません。ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」と同じか(笑)。

また読みたくなったら、図書館のオンラインで検索して取り寄せるのがいちばん早いと思います。今借りまくってる本を何とか読んでからにします。

新しい訳で読みたい!といっても、翻訳家の人にとっては何年もかかる翻訳作業があるはずです。読むのは数日でも、翻訳は何年もかかる。簡単に「新しい訳でお願いしたい。読みたい」とここで書いても、出版社も編集の人も翻訳家の人にとっても、無理ゲーでしかありません。

本を買うのは尊い行為だと思いますが、買って一度しか読まないのは勿体ないと思ってしまいます。文庫本はその最たる例です。専用の文庫本棚は東日本大震災でもびくともしなかったし、中身も当時とは変わっていますが、いわゆる不良債権状態です。どこから処分すればいいのかわからなくなってます。

どんな分野でも、何度も読んで心の栄養にしないと意味がないというか。
そのために、本屋さんと図書館の併用というスタイルをとってます。図書館で借りるのは、文庫で買っても後々処分に困るのが嫌な本ですね。新書は賞味期限が短いから、早いうちに読みたい本を買ってます(一応SNSで選別はしている)。

あ、翻訳とは脱線してしまった。
難しい海外文学の新訳が出ると話題になりますが、話題性にのっかって理解もできずに買っても、その翻訳の手間(?)を考えると申し訳なく思います。

新しい翻訳とは、最初に訳した人のイメージを一度ぶっ壊して、また一から始めるのだろうか? 英語を勉強していた割に、翻訳家の人の手間とか考えたことがありませんでした。海外文学を読まなかったのもあります。日本語になってて当たり前、みたいなところがありました。

ただの偶然から始まったことですが、今は翻訳という職業とかその内容に興味をもてるようになりました。でももう遅いです(涙)

【追記】
「五月三十五日」はケストナーの作品です。直木三十五とか直木賞と誤解されるところでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?