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パンを食べても死ぬのに、なぜパンを食べるのか

最近読んだ2つの本


まだnoteに慣れてないので、手始めに最近読んだ2つの本の感想を書こうと思う。
この記事はまず1つ目の本について書く。

この2つの本を読むきかっけは全く別だったが、奇しくも同じようなテーマだった。
そのテーマとは


「私とは何か」

ということである。

そう、最初の自己紹介記事も、同じようなテーマだった。

この2つの本を読んだ直後に書いた記事だったので。
(ちなみに読んだ本とかはTwitterアカウントでも感想を言ってます)

「私とは何か」改めて、人生の究極のテーマだと思う。




一つ目の本 池上彰『おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』



ある研修会での講師に勧められた本が本書のシリーズ第2弾 池上彰『おとなの教養2 私たちはいま、どこにいるのか?』だった。

その勧める理由は

最近の人たちは、一次資料や正確なデータがないと話を聞いてくれない、だから私たちも社会のことは正確なデータで学んでおくべきで、この本は正確なデータを分かりやすく学べる

とのことだった。


仏教書とかは日頃読んでいたが、社会の教養はそこまで身についてない僕なので、この本のまずシリーズ第1弾 池上彰『おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』を読もうと思って、書店に行ったのだが、やはり惹かれるべきは

”私たちはどこから来て、どこへ行くのか?”

という副題だ。

池上彰氏によって現代人必須の7科目「リベラルアーツ」(①宗教②宇宙③人類の旅路④人間と病気⑤経済学⑥歴史⑦日本と日本人)が分かりやすく(しかも面白く!)解説される。

初版は2014年だが、今流行している新型コロナウイルス(④人間と病気に該当)のことも考えれば、この7つは現代人の必須科目だなというのがよく分かる。

読み終わった後、副題である”私たちはどこから来て、どこへ行くのか?”という問いへの答えを、誰もが自然と持てるようになっていると思う。




人生における2つの大きな問い


私たちの人生においては、大きな問いが2つあると思う。
一つは、

”生きるための問い”

例えば、生きるためには食べていかなくてはならないから、
「どの仕事について」
「どのようにお金を使って」
「なにを食べようか」
という問題が実際にある。
これは究極的には「パンをどうやって手に入れるか」という問いである。
(ちなみに僕はパンが大好き、毎日食べる。一番好きなパンはシュガーツイストみたいなやつ。一番美味しい)


私たちの日常の営みのほとんどは、この問いに対する答えだと思う。
生きるために日々働いて(または働くために勉強して)、お金を稼いで、買い物をしてご飯を食べる。
一人で生きるのも寂しいから、友達と遊びに行ったり、恋人とデートしたりもするだろう。友達や恋人から貰った活力で、人は活き活きと生きていけるのだ。
これら全て「パンをどうやって手に入れるか」つまり、”生きるための問い”への答えである。


しかし、こうやってパンを食べて人生を歩んでいっても限界がある。

そう、人は必ず死ぬ。
そこで、
「パンを食べても死ぬのに、なぜパンを食べるのか」
という問いが発生する。
私たちの人生における大きな問いの2つ目
”生そのものへの問い”だ。


この問いに対して、古来からずっと向き合い続けてきたのが宗教だと思う。
そして、本書を見ればわかるのだが、
人はみな、この宗教的な問いを持ち続け、その答えを模索してきた(科学の発展もその答えの一つだ)。


結局私たちは、
「パンを食べても死ぬのに、なぜパンを食べるのか」
という問いに対する答えを、どこかで見つけ、それを自分の中の柱として保持していなければ、生きていけないのだと思う。


”私たちはどこから来て、どこへ行くのか?”というのも同じような問いで、
自分の存在と存在意義が分からなければ、結局のところ、生きていけないんだ。
パンを食べて生活していても、どこか虚しく、不安で、急に暗闇に覆われるような気持ちになる。


本書はこの宗教的な問いに対する人類の答えを歴史的に概観できると思う。
歴史的に、というのも、時代の為政者が作った歴史というのではなく、ニュートラルな目線で学べる。


時代に左右されない普遍的な知識、教養を身に付けたい人、これから社会人になる人にはとてもオススメな本だ。
僕はこれからシリーズ第2弾を読むところ。




”私たちはどこから来て、どこへ行くのか?”

それでは、私たちはどこから来たのかについて仏教的に考えたい。
(以下、先輩僧侶のご法話で聞いた内容を自分なりに噛み砕いたものであること、ここにご了承願いたい)

実は今は東京に来て4日目。
8年間生活した京都を離れ、東京に来たが、まだ慣れていない。
だから東京で会った人に「どこから来たの?」と訊かれれば、「京都から来た」と言うだろう。
でも実は北海道出身で、高校までは北海道で過ごしていた。
だから「北海道から来た」と言うかもしれない。

じゃあ、その前は?

お母さんのお腹の中から生まれてきた、とでも言おうか。

じゃあその前は?

う〜ん、おじいちゃん、おばあちゃんの中にいた?

じゃあその前は......

と訊いていくと、実は自分はどこから来たんだろう......となる。
それを探求するために科学が生まれ、宇宙の始まりを調べた。

本書でも②宇宙 の最後のページでは

私たちはどこから来たのか?
私たちは、ビックバンによって誕生したのです(池上彰『おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?』98頁)

と締めくくられている。

じゃあビックバンの前は?

分からない。
結局のところ、自分がどこから来たのかは分からない。
そして、どこへ行くのかも分からない。

このことを仏教では「無明」と言う。

明かりがないような真っ暗な世界。
真っ暗でどこが前なのかも分からない。
私たちはどこから来て、どこへ行くのかも分からないから、今どこに立っているのかも分からないのだ。
これが迷っている状態である。

仏教で言う「迷い」とは、2つの道のどっちに進もうか悩んでいる状態ではなく、今どこにいるのかも分からない状態のことだ。


ミュンヘンで迷子になった


20歳の時ヨーロッパを旅した。

イタリアのベネチアから深夜列車で移動して、ドイツのミュンヘンに着いた時、40度の高熱が出た。

宿を予約せずに放浪していた私は、まずは宿で休もうと思って、地図を見ながら宿を探したのだが、ちょうどオクトーバーフェストの時期で、どこも空きがない。

次々と宿を探している内に、道がわからなくなった。

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(↑有名なマリエン広場。ここだけ観光して、あとはどこにも行かなかった)

街にある地図看板と手元の地図を見ても、そもそも自分が今どこにいるのかも分からないから、地図の意味がなくなった。

「ここどこやねん!」
と叫びたかったが、高熱でそれどころではい。もうフラフラだった。

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(↑ベネチアからミュンヘンへ向かう夜行列車の中。既に高熱があったと思う)

今どこにいるかも分からないから、どこを目指して歩けばいいのかもわからなかった。
ミュンヘンの街で、まさに”迷っていた”。
もうどうすればいいのか分からなかった!


幸いにも、歩いていると日本人が経営している小さな食料品店を発見し、オーナーに事情を話すと、空きのあるホステルを予約してくれて、行き方も教えてくれた。
心の底から「救われた!!」と思った。



私たちの人生も、自分の居場所と、行くべき場所が分からなければ、ずっと暗く、不安なままだ。

仏教における浄土教では、自分が今どこにいるのかも、どこへ行くのかも分からない私たちに対して、阿弥陀仏という仏様が

あなたの進むべき道はここですよ。極楽という仏の世界です

と示してくれる。
真っ暗な世界に、向こうの方から1本の光が差し込み、自分の居場所まで届いた。


今までは何にも分からない迷いの人生を歩んでいたけど、
死んで終わりじゃなかった。


私の居場所は”ここ”で間違いなく、私の行く道は尊い世界なんだ!
と受け止めて生きることが、人生を豊かにすると思う。


そう考えたら、シュガーツイストをもっと美味しく食べれる気がする。



2つ目の本については次回の投稿にて。

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Okuda Shogo
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