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メモ・佐々木敦『成熟の喪失』を読んで

 佐々木敦の新刊『成熟の喪失─庵野秀明と”父”の崩壊─』を読み終えた。タイトルの通り、「成熟」についてエヴァンゲリオンで知られる庵野秀明の作品群と文芸批評家、江藤淳の歩みを絡めて論じた作品なのだが、いかにも佐々木敦的なアジテートされる文体と、颯爽と庵野や江藤の発言、彼らにまつわる言説を紐解きながら分析していく様は、平たく言ってしまえば「アツく」てすぐに読み終えてしまった。その熱量のまま、飛躍や誤読を恐れずに書き散らしてみようと思う。

 早速ネタバレになってしまうのだが、本書のラストで佐々木は「成熟」についての江藤の言葉をこうリライトしてみせる。

なぜなら「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。

なぜなら「成熟」するとはなにかを喪失することではなくて、「成熟」を喪失することだからである。

読めば分かることなので、なぜ本書がそのような帰着に到るのかここでは説明しない。ひとつ付け加えるとすれば、佐々木は日本における成熟=「日本的成熟」とは現実否定→現実容認→現実肯定という無意識のプロセスを辿っていると指摘している。佐々木はそれを「セカイ系からシャカイ系」へという言葉で表している。つまり、超越の希望が砕かれた後に、その現実を受け入れ肯定していくことが成熟である、という訳だ。しかし、その上で佐々木は「成熟」を書き換えてみせる。あとがきで彼はこう書いている。

だから私は、自分(の人生)を肯定するために本書を著したのだと──もちろんそれがすべてではないが──言えるかもしれない。だが私は、自分のような者、つまり「大人」になれなかった/ならなかった大人、「成熟」しない/出来ないまま長い時間を生きてきた人間は実のところたくさんいるはずだとも思っている。それに、いわゆる「成熟した大人」として普段は振る舞いながらも、その内面にもっと違った何かを隠し持ったままのひとだって、実際大勢いるのではないか。そんな気持ちも、私に本書を書かせた動機のひとつであったかもしれない。

つまり「いかにして中二病のまま大人になるか」ということを佐々木は提示していると言えるだろう。それは批評家の伏見瞬が同人誌「いぬのせなか座」の主宰、山本浩貴の仕事を中二病のまま他者と繋がろうとするものだと指摘していたこととも似ている。

死に近づくことに恐怖と蠱惑を覚え、大事な人が笑うなら世界を敵に回してもいいと盲信する対幻想を抱き、あらゆる他者を拒絶することでなんとか生き延びる14歳の心性。彼はそれを否定するために、苛烈な変容を自らの課するのではない。中二病の自分を殺さないためにこそ、変容の作業は要請される。山本といぬのせなか座における、幾重にも折り重なって歪められたテクストの透明さは、あの日の自らの心を、社会化させないまま他者に送り込むために必要とされる。

伏見瞬「山本浩貴(いぬのせなか座)における「中二病」の変形Transformについて」

「日本的成熟」を拒否し、中二病的心性をもったまま大人として振る舞うこと、それは現代の社会規範からかなり外れた態度と言わざるをえない。それは、少なくとも現代における大人のイメージとは大きくズレている。

ここで思い出したいのが、千葉雅也が『現代思想入門』で提示した生き方だ。

千葉はメイヤスーやフーコーの思想をもとに、「ひとつの身体が実在する。そのことに深い意味はない」のだから「私がこのようであることの必然性を求め、それを正当化する物語を」ひねり出すのではなく、「今ここで、身体=脳がどう動くか」が重要であると述べる。つまり、ひとつひとつの問題を、自己の追求といった「実存的」な問いに結びつけるのではなく、すでに存在してしまっている私がいかに運動していくかを重要視しようということだ。ある出来事に対して、自己の内面に潜るのではなく、むしろそれが生み出す運動に乗って前に進んでいくこと。いちいち深刻に内省するのではなく、流れの中をあっけらかんとした態度で生きていくこと。

それは佐々木の言う、「成熟」の書き換えと近いところにあるように思える。佐々木にしろ、千葉にしろ「悩むことが深い生き方である」近代的な世界観と、そこから生まれる堅苦しい「大人=成熟像」とはちがう、オルタナティヴな生き方、成熟の在り方を提示しているように思う。内省から運動へ、ということだ。

あと佐々木敦、千葉雅也の両氏が保坂和志の一連の小説論に影響を受けていることも興味深い。そういえばぼくは前回の文フリで頒布した「保坂和志「コーリング」論」でこんなことを書いた。

保坂が提示したかったのは、ジャコメッティ的な切り詰め、省いていくことで、型抜きのように自己を追求するのではなく、視線と運動の中で拡散していき、世界をとりこむことでふくよかになっていく「私」だったのではないか。


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