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「氷山の八分の七」を隠す?―カフカの世界と漱石の夢

『カフカ短篇集』(岩波文庫)との出会い

大学の授業と期末課題がひと段落したので、何か一つ読みごたえのある小説を読みたいという気になった。日本の文学はあまり読む気がしない。外国の、ヨーロッパの古い小説がいい。そこで最寄りの大きい書店に立ち寄ってみる。しかし、有名どころはどれも既に読んだことのあるものばかりだ。しばらく悩んでから、プラトンの『ゴルギアス』と『カフカ短篇集』(岩波文庫)を手に取ってレジにならんだ。

カフカを手に取るのは実に数年ぶりのことである。中学時代、『変身』『城』『審判』と立て続けに読んだことを憶えている。ただ、内容はおぼろにしか覚えていないし、当時の自分にしても「名著をたくさん読む」ことばかり頭にあって、これらの本の内容やレトリックの機微についてはあまり注意を払わなかった。深く読み込むことよりも、とにかく量を読むことに対する衒いがあったのだろう。

それだから、たしかに以前カフカを(それも彼の代表作を)読んだことがあるにもかかわらず、今回はじめて私はカフカを読むのだと思う。

かつての私は、学校で先生が語るカフカ評や批評家が書いた解説、あるいは「実存主義」を感じさせるフラグメントを彼の作品の中に確認しようとあら捜しをしていただけだったのではないか。

成人した今、そうした外的なコンテクストから離れて、はじめて私はカフカと向き合うのである。たとえマイナーな『短篇集』であっても、その点にかんして不足はあるまい。

「氷山の八分の七」を隠す文体

『カフカ短篇集』をパラパラとめくって最初に驚いたのは、作中での出来事の説明をカフカは全くと言っていいほどしないことである。例えば、『雑種』という作品では、冒頭で突如「半分は猫、半分は羊という変なやつ」が父親からゆずられたことになっている。そのことに対する疑問や解説は一切省かれており、淡々と語りが進んでいく。そして唐突に、

もしかするとこの動物にとって、肉屋の包丁こそいちばんの救いかもしれない。だが、せっかくの遺産である、ここはひとつ相手が息を引き取るまで待つとしよう

と語り手は一人で納得し、物語は終了する。

また、『プロメテウス』という小品では、プロメテウスについての四つの言い伝えが列挙されたのち、最後に一言こう述べられる、

あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならないのだ

この意味深なラストには一切の解説が省かれている。それは一体どういう事なのか。なぜ「真理をおびて始まるものは、しょせんは不可解なものとして終わらなくてはならない」のか。それに対する疑問が欠如しているのである。

読み終わると、読者は何か突き放されたような感じがして、この意味深な一言に隠された意味を延々と考えてしまう。多くの人がカフカの作品になんらかの「寓意」を読み取ろうとするのは、カフカの文体が疑問や解説を斥けているために、解きがたい「謎」を帯びているからである。

ヘミングウェイはストーリーテリングの理想を氷山に譬えた。つまり、よく出来た小説は出来事のディテールをすべて書きこむ必要はなく、むしろ「氷山の八分の七」を水面下に隠すべきだというのだ。

カフカの作品は、その意味で「氷山の八分の七」が隠された文体で書かれている。眼に見える海上の「八分の一」に当惑した読み手は、思わず水面下に隠された意味を探りたくなる。カフカの魅力というのは、根源的にそこにあるのではないかと私は考えている。

漱石『夢十夜』に見るカフカ的世界

しかし、私としてはカフカの小説から「寓意」のような何かしらの意味を掬い取ろうとするのはつまらないと思う。あくまでこの夢のようなストーリーを現れるままに追体験することこそカフカを読む醍醐味ではないだろうか。

私はカフカの世界を「夢のような」と言った。もちろん、その「夢」の意味するところが未来の希望にまつわる夢ではないことは言うまでもない。私が意図するのは、寝ている時に見る夢の方である。『カフカ短篇集』の世界は、私たちが寝ている時に見る夢の世界に近似している。

『カフカ短篇集』を読んでいて、私は夢の世界を描いたもう一つの作品―夏目漱石の『夢十夜』が想起されてならなかった。カフカの語りは『夢十夜』で漱石が展開したあのグロテスクな夢の世界を髣髴とさせるものがある。

『夢十夜』でも出来事に対する語り手の疑問や解説は省かれており、語り手は出来事の経過を淡々と述べながら一人で断定し、勝手に納得する。

こけっこうと鶏がまた一声鳴いた。女はあっといって、しめた手綱を一度に緩めた。馬はもろひざを折る。乗った人と共に真向へ前のめった。岩の下は深い淵であった。蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。鶏の鳴く真似をしたものは天探女(あまのじゃく)である。この蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵である

『夢十夜』第五夜はこうして幕を閉じる。ここでは「鶏の鳴く真似をしたもの」が特に説明もなく「天探女」であると断定され、唐突に登場した「天探女」とは一体何者なのか、その解説もないまま話が終わってしまう。

「氷山の八分の七」は隠されており、読者はそこに隠された意味を思わず探りたくなる。例えば、「漱石自身が自分の内なる〈あまのじゃく性〉に邪魔されて悲恋に苦しんだ寓意ではないか」といった具合に。

また、『夢十夜』第七夜は「何でも大きな船に乗っている」という書き出しで始まる。この点はカフカの『雑種』を想起させる唐突さだ。第七夜のエンディングは次のようなものである、

自分はますます詰まらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。・・・ところが―自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、急に命が惜しくなった。・・・自分は何処へ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと初めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出来ずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った

ここまで来るともはや悪夢である。こうした悪夢の世界の深刻さ・過酷さは漱石が抱えた苦悩を反映しているように思われる。「掟の門」の前で苦しんだカフカ同様、漱石の夢には何か意味深なものが顔を覗かせている。

とは言え、先に述べたように、ここでも漱石の夢に意味や寓意を探ることはせずに、カフカ同様、立ち現れるできごとをありのまま受け止めよう。それがカフカを読むということであり、漱石を読むということなのだと私は考える。





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