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言語に考えさせられている?―Theyについて

三人称単数のtheyがなぜ日本で流行らないのか

しばらく前、三人称単数の人称代名詞としてtheyが話題となった。これはジェンダーに配慮して、性別を明示する事を避ける目的で始まった用法である。この場合のtheyは複数形の「彼ら」の意味ではなく、同じく三人称単数の人称代名詞であるheやsheのように性別を明示しない。

先日、ある友人がこの話題について、「欧米では大きな関心を呼んでいるのになぜ日本ではそうはならないのか?」と嘆いていた。実際、theyの問題は日本ではせいぜい「アメリカのトレンド」であり、あくまで向こう側の問題で実感が湧かない。

思うに、これは多分に言語の問題だからである。日本でtheyの話題があまり流行らないのは、性的マイノリティやジェンダーにまつわる問題がないからではなく、英語使用者ではない日本人にとって言語的に無縁だからだ。つまり、theyにまつわる一連の議論は、英語という言語のシステムに固有な問題であって、そう考えれば多くの日本語話者にその必要性が理解出来ないというのも不自然な話ではない。

とは言え、それは日本人だから無縁だという話ではない。あくまで英語で思考したり表現したりする必要がないから他人事で済むのである。もし英語を日常的に使用しているにもかかわらずこの問題を理解しない日本人がいるとしたら、それは問題だろう。

古い日本語のtheyは「あれ」

日本語話者の間では、「彼・彼女」のような性別を明示する人称代名詞を避けて会話する事が出来る。むしろ、「彼・彼女」といった単語を積極的に使用すると、特に口語の場合、ぎこちなくて不自然な会話になってしまう。

「彼・彼女」は明治期に創出された翻訳文体を想起させる。つまり、それはヨーロッパ言語の人称代名詞に対応するものとして出て来たのだ。逆に、古い日本語では「彼」という語は男女を問わずに使用されており、例えば『源氏物語』では女君を指して彼と呼ぶ用法がある。

この場合の「彼」はむしろ「あれ」に近い使い方をされていて、実際、古い日本語の特徴を残す沖縄方言(ウチナーグチ)では、「彼・彼女」に当たる人称代名詞は性別にかかわらず「あれ」に由来する「あり」に統一されている。「あれ」や「あり」は三人称単数のtheyと感覚的には近いのかもしれない。

日本語で問題になるのは?

性差の明示について考える時、日本語話者にとって問題となるのはtheyのような人称代名詞ではなく、語尾や話し方、イントネーションの付け方である様に思われる。例えば、私の様な男性が「そうね」とか「こう思うの」と内心思っているとしても、もしそれを実際に口にすると奇異な眼で見られるだろう。それは「ね」や「の」と言った語尾と、そうした語尾を使用する際にー日本語のシステム上ー取らねばならない話し方のスタイルが女性的な何かを暗示するからである。

日本語話者の間では、こうした話し方をする男性はオネエ系やオカマといった形容をされる場合がある。とは言え、これはあくまで暗示に留まるもので、発話者の性別は究極的には明示されない。オカマっぽい話し方をしていても性的マイノリティではない男性というのは十分に考えられるし、実際結構存在する。

こうした次第であるから、日本語を話している間はtheyに類する問題は発生しにくい。それは日本語という言語がそうした問題と無縁なシステムで出来ているからである。しかし、構文上主語の性別をはっきりさせねばならない印欧語族の言語では話が異なってくる。

「書いた(男)」なのか「書いた(女)」なのか?

英語では、誰かについて話す時に、それがheなのかsheなのか必ず言わなければならない。英語で人称代名詞が問題となるのは、それが性別を明示するからという理由だけではない。何よりもまず、文章を作成する際に、こうした人称代名詞の使用がシステム上避けて通れないのである。

もっとも、その点、英語は他の印欧語に比べると問題は極小化されている。英語では人称代名詞だけが問題であるが、他の言語の中には動詞が男性形・女性形にはっきり分かれているものがある。例えばロシア語では、構文上、動詞の過去形を使う際、主語が男性なのか女性なのかをはっきりさせなければならない。

だいぶ前の話ではあるが、ある時、ロシア人の友人に性別適合手術の体験談が書かれた漫画を紹介しようとして困った事がある。例えば「作者はこんな事を書いた」という何気ない日本語をロシア語で言おうとする時に問題は発生する。「作者(автор)」という語は性別を明示しない。しかし、「書いた」という動詞はнаписал「書いた(男)」なのかнаписала「書いた(女)」なのかがはっきりと表示されてしまうのである。

私達は言語に考えさせられている

これは日本語で考えているうちは全く気にする必要のない事であるので、ロシア語で話し出した途端、当たり前だと思っていた感覚から引きはがされて、無理に明示したくもないものを明示させられる様な不快感に襲われた事を今でも覚えている。

その時実感した事ではあるが、我々は普段、自分達は自由に考えていると思っていても、実際には日本語や英語、ロシア語といったそれぞれの言語のシステムの中でそう考えるべくして考えさせられているのである。

動詞の過去形が示す対立

動詞が性別を明示してしまう現象について言えば、これは何もロシア語に限った話ではない。例えばポーランド語はロシア語と近い関係にある親類言語であるが、この言語でもロシア語と同様に動詞の過去形が性別を明示してしまうという問題がある。

ポーランド語学習歴の長い知り合いによれば、性同一性障害のポーランド人男性を指して語る時、男性形をあえて使い続ける人もいるらしい。この場合、男性形を使用する事が「性的マイノリティに対してどのような意見を持っているのか」を如実に示しているので、単なる動詞の過去形が政治的な対立のシンボルになってしまう事も十分あり得るのだ。

この様に、いくつかの言語では性別と言語の問題は英語のように人称代名詞に限定されるものではない。むしろロシア語やポーランド語における動詞の過去形のように、文章構造の根幹に関わる場合が多いため、より根元的かつ困難な問題となり得る。それは、日本語話者は勿論の事、theyに興奮する英語圏の人々にも思いの及ばない所であると思う。

日本には見えにくい別の問題があるはず

結局の所、theyは人称代名詞を明示しなければならない英語のシステムに由来する問題である。日本語のシステムの内部ではそれは身近な問題ではないのだから、日本でtheyが流行らないからといって、私の友人のように嘆く必要はないだろう。とは言え、それは必ずしも日本で性的マイノリティやジェンダーの問題が流行らないという事ではない。

むしろ、日本には日本に固有の問題が別にあるだろう。また、それは印欧語の世界のようには明示的ではないため、より隠微で見えにくく、闘いにくい性質をしているかもしれない。私は専門家ではないのでそれが具体的にどのようなものになるのかは分からないが、専門家による啓発活動と、それに合わせて市民が自分たちに固有の問題が何なのかを認識して真摯に向き合う事は、是非とも必要であると考える。

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