「カリキュラム・マネジメント」不在とそこから生まれる「共通テスト批判」
2回目の実施を終えた共通テストの評価分析報告書が最近になって公開となり、それに伴ってネット言論上には試験直後と同じようにテストの批判を見かけるようになりました。
もちろん共通テストの欠点も存在します。
従来と異なる得点帯型で設計されたにも関わらず、従来型の得点方式でそのまま利用しているため、得点分布に偏りが見られるなどはその典型例です。
(おそらく構想段階では得点分布帯での利用であり、CEFR的な運用を想定していたのではないかと思われます)
これがいわゆる難しすぎるという批判の元となっています。
共通テストは○○の試験として相応しくない
そうした批判の主だった内容は、○○(=教科名)の試験としてその教科の実力を測るのに適切でない、というものです。
数学の試験なのに不必要なノイズが入っていて本質的な数学力を問うことができていないといった批判です。
私もこれには同感です。
数学教員として数学の理論の理解や定義や定理の運用力を問う問題としては疑問符が付きます。
しかし、果たして大学入学センターは数学力を、あるいは教科力を問う試験を作るつもりが最初からあったのでしょうか。
新指導要領は教科横断を前提
以下は文科省の公式HPから新指導要領の教師向け参考資料、『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実』からの引用になります。
現在の共通テストは基本的に現行の学習指導要領の下で行われていますが、明らかに改定された新指導要領をベースとして構想されており、新指導要領のSTEAM教育や科目横断型の理解力を聞くことに特化した形式になっています。
つまり、文科省や大学入試センターは最初から教科に関しての学力を問う気などさらさら無く、教科横断型の発見力や思考力、解決力を聞くことをコンセプトにしているのです。
したがって、そもそもの「教科力を云々」という批判自体がが筋違いなのです。
新指導要領の趣旨が大学受験関係者に浸透していない
結局の所、高校教員や大学受験関係者に対して、新指導要領の趣旨や意図が浸透していないことがこの批判問題の根本的な原因になっています。
高校教員や大学受験指導者の多くは教科の専門家です。彼らは教科の専門家としてこれまで学習指導に当たってきました。
彼らにとって学力とは教科の理解であり、知識であり、運用力なのです。
しかし、新指導要領や共通テストはそういった専門的な教科を直接的に聞きたいわけでなく、教科の知識を前提とした上でどうやって読み取るか、考えるか、判断するかを聞きたいのです。
教育改革のこの肝心要の部分が、現場教員諸々に全く、一切、欠片も伝わっていないのが実情なのです。
「カリキュラム・マネジメント」という概念の不在
高校教員と特に小学校の教員とを比較して、使用する頻度が極端に異なる教育用語が存在します。
それは「カリキュラム・マネジメント」です。
要は教科横断的な学力を養うために、各教科の進度や内容を連動させて工夫しよう、というものです。
例えば、小学校での例で考えると国語での文章作成(序論本論結論の利用)と理科の電池実験レポートの作成時期を連動させて、さらに社会におけるSDGsの学習も行う、ようなものになります。
実際には知識的な連動性だけでなく、獲得したい資質や能力などを効果的な順番や連携になるようにカリキュラムを設定するというものです。
しかし、実際には高校では(中学校でも)分厚い教科の壁がそれを阻んでいます。
物理の力の分解と数学の三角比の履修時期ですら連携できていないことも多いのが現実なのです。
教員側の意識改革が必要
これまで高校教員は各教科のプロフェッショナルとして教科指導に当たればそれで済んでいました。
しかし、新指導要領の求める教員の資質はそれだけでは不十分になっています。
特に選択教科などの多い高校においては、教務に丸投げすることなく、それぞれの教科で、それぞれの教員がカリキュラム・マネジメントを意識した授業設計や進度設定が必要とされます。
そして、それらが上手く連動している学校やクラスであるほどに共通テストの結果も底上げされることは間違い有りません。教科の学力とは異なるベクトルの学力として機能していくことが予想されます。
各教科の学習に関しては、教員がその場で授業をする以外の手段によって最適化が行われつつあります。ICT導入はその波の一つです。
共通テストの内容の批判が決して正当性のないものだとは私も思いません。
しかし、それ以上に求められるものが変わった、ゲームチェンジが行われつつあると一刻も早く気づく必要性があるように感じます。
教科のプロ意識とは異なる次元の意識改革が、私達高校教員には求められているのではないでしょうか。
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