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ショーペンハウアー「読書について」より

元々唯自分の抱く基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読み取った他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着に過ぎない。我々自身の精神の中にもえいでいる思想は言わば花盛りの春の花であり、其れに比べれば他人の本から読み取った思想は石に其の痕を留める太鼓の花のようなものである。
読書で生涯を過ごし、様々な本から知恵を汲み取った人は、旅行案内書を幾冊も読んで、或る土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料を色々持ち合わせているが、その土地については纏まった知識も、明瞭な基礎的知識も全く欠いている。此れと対照的なのが生涯を思索に費やした人で、言わば自分でその土地に旅した人の立場にある。そういう人だけが問題の土地を真の意味で知り、其の土地の事情についても纏まった知識を持ち、実際、我が家のように精通しているのである。
誰でも次のような悔いに悩まされたことが有るかも知れない。其れは即ち折角自ら思索を続け、其の結果を次第に纏めて漸く探り出した一つの真理、一つの洞察も、他人の著した本を覗きさえすれば、見事に完成した形で其の中に収められていたかも知れないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、其の価値は書中の真理に百倍も勝る。其の理由は次の通りである。第一に、其の場合にのみ真理は我々の思想の全体系に繰り入れられて不可欠な有機的一部と成り、この体系と完全に固く結合し、整然と論理的に理解される。第二に、其の真理は其の備える色彩、色調、特徴からして、何れも我々自身の考え方から生まれたことを示している。第三に、其の真理は丁度其れを強く要求しているときに現れたので、精神の中に確固たる位置を占め、更に消滅することはない。(中略)自ら思索する者は自説を先ず立て、後に初めて其れを保証する他人の権威有る説を学び、自説の強化に役立てるに過ぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系を作る。其の結果此の思想体系は他人から得た寄せ集めの材料から出来た自動人形の様なものとなるが、其れに比べると自分の思索で作った体系は、言わば産み落とされた生きた人間に似ている。其の成立の仕方が生きた人間に近いからである。即ち其れは外界の刺激を受けて身篭った思索する精神から月満ちて生まれたのである。
我々の存在、此の曖昧な、苦悩に満ちた存在、此の束の間の夢にも似た存在は、甚だ重要な差し迫った問題で、一度此の問題に目覚めると、他の問題や目的は全て其の影に覆い隠される程である。だが僅かの例外を除けば、全ての人々箱の問題に対して明白な意識を持たず、其れどころか全く此の問題に気づいていない様で、此れとは全く違った問題に心を砕き、唯今日という日や、自分の一身に繋がる明日という同じく束の間の時にのみ気を配りながら、無為の日々を送っている。と言うのも彼等が此の問題を故意に無視しているか、此の問題に関しては進んで何が俗流形而上学の様なものと妥協し、其れで済ませているのかの何れかであるからである。さて此の問題の重要さをよく考え、其れに対する人々の日常的態度に注目すれば、人間は兎も角僅かに、広い意味での考える動物に過ぎないという意見に到達し、以降は人間に無思慮、愚鈍の特徴を見出しても、奇異の想いを抱くこともなく、却って人間の真実を積極的に知ることになる。即ち平均水準の人間の知的視界は、動物の視界、未来と過去を意識せず全存在を言わば唯一つの現在に限っている動物なるものの視界を超えてはいても、実際は我々が平生想定している様な無限への隔りが、両者の間に在る訳では無いという事実を認めることになる。


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