
「学ぶ」の語源は「真似ぶ」
「学ぶ」の語源は『真似ぶ(まねぶ)』らしい。たしかに言われてみれば似ている。
また、「まねぶ」でググるとこのように出てくる。
1 まねをする。まねをしていう。
2 見たこと聞いたことをそのまま人に語る。
3 教えを受けて身につける。習得する。
なるほど。学びは真似から始まるのか。
武道の世界には『守破離(しゅはり)』という言葉がある。そこから広がり、一部のビジネス界でも使われている。
「守」は師匠の型を真似る段階を指す。ビジネスで例えれば、上司の教え通りに営業トークを展開するフェーズ。
「破」は真似ていた型に自分の工夫を加える段階のこと。テンプレ化した営業トークの順番を入れ替えたり、アレンジしてみたりするフェーズ。
「離」は真似と工夫を経て、独自の型が出来上がっていく段階。上司のアドバイスがなくとも、これまで培ってきた経験と知恵で自分なりの提案ができるフェーズ。
振り返れば、人間の成長はそういうものだ。赤子として生まれ、声を出す真似をし、手の使い方を知り、ハイハイを覚え、立ち、歩き、話せるようになる。意味がわからない言葉でも、まずは音を真似る。最初はひたすら反復である。
ところで、『量質転化』という言葉がある。量をこなすことが質的な変化を生じさせることを指す。何かをたくさん練習すれば相応に上達する、ともいえる。
これまでの話を踏まえるとこうなる。
学びは、まず真似ることから始まる(まねぶ)。ひたすら真似て、慣れてきたら少しずつ工夫を加える。観察、分析、探究をした先に、これだ!と思える方法にたどり着く(守破離)。その間、時間なり労力なりお金なりコストがかかるが、このコストの分量が丸々肥料となって、学びという果実をより洗練されたものにしてくれる(量質転化)。
昨今、リスキリングなんて言って新しいことを学ぶ人も多い。そういう時代だからこそ、「そもそも学ぶってどういうことなんだっけ」と原点に立ち返るのもよいかもしれない。
捉え方によっては、学んでいるという自覚がなくても、毎日同じことを考え、同じことを繰り返していることがあるとすれば、それは「無意識に学び続けている」ということでもある。その内容がよいことであれば結構だが、例えば人の陰口を言うとか、意地悪をするといった悪いことであれば直していくべきである。
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