【~連載~静岡の歴史を学ぼう274】Sumpu's ruling in the Tensho period (1586-1590) Part3天正期の駿府の統治(1586年から1590年) パート3
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上記の写真 提供:静岡市。
静岡の戦国時代の歴史でよく聞く名前「中村一氏かずうじ」。この天正期に関わりのある人物です。ちなみに臨済寺に中村一氏のお墓があります。
徳川家康公は天正期の五か国(三河、駿河、遠江、甲斐、信濃)統治時代、駿府において住民たちが大事にしている神社仏閣を早急に立て直すことで支持を集めました。
Sumpu's ruling in the Tensho period (1586-1590) Part3
天正期の駿府の統治(1586年から1590年) パート3
It seemingly caused Toyotomi Hideyoshi to have a fear against Tokugawa Ieyasu.
徳川家康が駿府にある神社仏閣の建て直しを着実に進めたことで、豊臣秀吉は家康に対して恐れを抱いたことでしょう。
Hideyoshi had a quick measure.
秀吉は素早い対応をしました。
In 1590, he ordered Ieyasu to transfer from Sumpu to Edo.
1590年、彼は家康に対して、駿府から江戸に移るよう命じました。
It means that Ieyasu had to relocate his territory of five provinces to a vast land in the Kanto Plain.
つまり、家康公は5か国の領地から関東平野の広大な土地に国替えすることを意味しました。
※下記コメント欄 参照
Toyotomi Hideyoshi wanted Ieyasu to stay further from Kyoto and Osaka which were the center of Japan at that time.
豊臣秀吉は家康を当時の日本の中心であった京都と大阪からより遠ざけたいと思っていました。
Toyotomi Hideyosi made Nakamura Kazuuji, the daimyo loyal to Hideyoshi, the lord of Sumpu Castle.
豊臣秀吉は、子飼いの(秀吉に忠誠心を持つ)中村一氏を駿府城の城主にしました。
Nakamura Takauji served as the lord of Sumpu Castle for 10 years from 1590 to 1600.
中村一氏は1590年から1600年にかけて駿府城の城主を務めました。
There is a belief that Nakamura dug the moats deeper and piled up the stone walls higher to prepare for Ieyasu’s attack.
中村は家康の攻撃に備えて、堀をより深く掘り、石垣をより高く積み上げたという言い伝えがあります。
It indicates that Toyotomi Hideyoshi was afraid of Lord Ieyasu due to his growing power.
それは豊臣秀吉が力をつけていた家康公を怖がっていたことを示しています。
参考文献:東海道駿府城下町(上)―― 東海道中核都市の誕生
第二部 駿府城下町の誕生
企画・執筆 黒澤 脩
社団法人 中部建設協会 編集・発行