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アダルトチルドレンを自覚するまでの23年間 ①

物心ついた頃から、
親の機嫌を伺いながら生きるのは当たり前のことだった。

だから、

疲れていても、「疲れてないから大丈夫」

楽しくなかったけど、「楽しかった」

自分が悪いのか分からなくても、「私のせいだ」。

それが当たり前だったし、それが普通だと思っていた。


でも本当は、

私は悲しかったし苦しかったし、辛かった。

誰かに自分の本音を聞いて欲しかったし、

助けて欲しかったし、

ちゃんと愛されたかった。


自分がそう思っていたと気づくまでに23年かかった。

自分にそんな感情があったなんて、知らなかった。

しかも、

自分の感情や思ったことをそのまま表に出して良いなんて、

本当に、知らなかった。

どうやら、自分みたいな人はアダルトチルドレンと呼ばれるらしい。

アダルトチルドレンという言葉自体は中学か高校生の頃に既に知っていた。

でも、自分がそうであることを自覚できなかった。

自分の心に蓋をし続けていたから、

自分の本当の気持ちなんてとっくに分からなくなっていた。

自分はアダルトチルドレンだったと気づいた今になって振り返ると、

これまでの私の人生は、

自分では普通だと思っていたことが、実際は

「いや、それ普通じゃなくね?」

ということの連続だった。

無駄に気を使って、

自分を犠牲にしまくって、

それでも人に尽くして、

どうやったら人に必要とされるんだろう、と

考えて、考えて、考えたその行動で、

また裏切られる。

自分のことも人のことも、

どんどん信じられなくなっていく。

この繰り返しだった。


暗い過去だからできれば思い出したくないし、なかったことにできるならそうしたい。

そう思っていた。

だけど、

今まで辛い思いをした自分だからこそ、

今、同じような辛さを抱えている人に届けられるものがある。

自分のこれまでの人生経験は、人と共有する価値がある。無駄にはならない。

そう思えた。

そう思えるまでの23年間に起きた出来事を、

これから数回にわたってnoteに書いていくことにした。

正常な思考回路を持って生きてきた人には

理解できない部分もたくさんあると思う。

そういう人もいるんだと思ってもらえたらそれで良い。

私と同じような境遇の人は、もしかしたら
とても共感できる内容かもしれない。

そういう人がもしいるとしたら、
自分1人じゃないんだと、気づいて欲しい。

そして、絶対にそこから抜け出せることだけは、信じれなくていいから知っておいて欲しい。

あとは、

辛かったことがたくさんあったけど、

私はかわいそうな人ではない。

いろいろな人との巡り合わせのおかげで、

どうにか取り返しのつかない道に外れないで

ここまで生きてこられた、めちゃくちゃ運が良い人だと思うし、

自分が幸せになれることを諦めない強い人だと思う。

だから同情はいらないし、

いろいろあったけど乗り越えられて良かったねと思ってもらえたらそれでいい。

ではでは、本編へ!!


私の家庭環境

まずは私の家庭環境からお話しする。

家族構成は、父、母、3歳上の姉、9歳下の妹。

父は大企業のサラリーマン。

母は私が乳児くらいの時までは看護師だったらしい。

姉は昔から、頭の良すぎる人特有のちょっと変わった雰囲気があった。
確かによく勉強ができる人だった。
今は医者をしている。

私は姉には及ばなかったけど、一浪したのち国公立大学に進学した。
スタバや花屋でバイトをしていた。

はたから見たら、「すごいね」と言われるような肩書きをみんな持っていると思う。

それに、すごく裕福というわけではないにしても

子ども3人を育てるには十分に稼ぎのある家庭で、金銭面でも不自由なく育った。

他の家庭でよくある「勉強しなさい」も言われたことがないし、

やりたいようにやらせてくれたことも多いと思う。

みんなそれなりに成功していて、
何ひとつ不自由のない、理想的な家庭だ。

表面上は。


「ママは病気なんだ」

そう父から知らされたのは小2の時だった。

ちょっとびっくりした。でも冷静に聞いた。

「それってどんな病気?」

「色々怒っちゃう病気。」

「治るの?」

「良くなるとは思う。」

「へぇ。。。」

病名はいまだに知らない。

でも思い返せば私が物心ついた時から

母は明らかに感情の浮き沈みが激しかった。

普段は優しいのに、

思い通りにならないことがあったり、

何か癪に障ることがあると、

人格が豹変したように暴言を吐いたり、物を投げつけたり、叫んだりしてしまう。

そしてそれが収まると、今度は何度も謝ったり、自虐したり、とにかく鬱っぽくなる。

攻撃的になる時は、主に父への当たりが強かったけれど、

私や姉も時々ターゲットになることがあった。

攻撃の激しさにも段階があって、

舌打ちや暴言はしょっちゅうで、

叫んだり物を投げつけるのは月に1、2回くらいの頻度で起こっていたと記憶している。

この月に1、2回の暴れ具合が尋常じゃなかった。

目の前にあるものは何でも投げつけてしまうので、

食器はほぼ毎回割れた。

家電もたまに壊れたし、

壁に穴があいたこともあった。

洗濯物がいろんな場所に散らかったり、

食べ物が思いっきり床にぶちまけられたり、

今思い出すのも辛いくらい、

とにかくめちゃくちゃだった。

母が暴れるのを見るのは当時もとても怖かったし、何回見ても慣れることはなかった。


でも、私はこれらは全て自分のせいで起こっているんだと本気で思い込んでいた。

私が余計なことを言わなかったら。

私がもう少し早く様子に気づいていたら。

私が家事を手伝っていたら。

私が大人しくしていたら。

こうはならなかったはずなのに。

特に、母が病気だと知ってからは、
絶対に母は悪くないのだから責める気持ちなんて持っちゃダメだ、と言い聞かせた。

母は病気でかわいそうなんだ。

私がなんとかしないといけない。

自分のせいだ。自分が悪いんだ。

何ひとつ疑わずにそう思っていた。

どうやったら母は怒らずに済み、

家族が平和でいられるのか。

毎日そう考えて過ごしていた。


聞こえないふり


母が笑顔じゃなくなったらちょっとふざけてみたり、

何か話したいことがあっても、母が機嫌悪そうにしていたら我慢したり、

「今日何食べたい?」と聞かれたら母の好きそうな食べ物を言ってみたり、

幼稚園ごろからの記憶しか残っていないけど、

その頃から既に、私の家での行動のほぼ全ては、母の機嫌をとるためのものだった。

本当はどうしたいのかなんて、どうでもいい。

母が怒らないならなんでも良かった。

それでもやはり、母の機嫌は悪くなる。

夕飯の準備をする時は、特に機嫌が悪くなりがちだった。

ちょっと上手く野菜が切れない。火が通るのが遅い。

そういう些細なことでイライラしてしまうのだ。

少しずつ、野菜を切る音が大きくなっている気がする。

物を置く音も大きくなっている気がする。

そういえばさっきから舌打ちが止まらない。

ここまで来るともう手遅れで、
私にはどうしようもないことは分かっていた。

そういう時は、私はいつも聞こえないふりをした。

テレビに見入っているふり、

集中して読書をしているふり、

宿題の問題が解けなくて悩んでいるふり。

いろんなふりをして、「怖い」という感情に蓋をした。

そして今振り返ると自分でも恐ろしいのだが、

そういう日はどんな料理であろうと、

美味しい!!と言って、

いつもより早く、そして多めに食べていた。

母に作って良かったと思ってもらうために。

5、6歳からこんなことができてしまう自分は天才だったかもしれない。笑


連絡帳


幼稚園の頃のことで覚えているのが、

こっそり連絡帳を読むことだ。

親が私の家庭での様子を書く欄と

幼稚園の先生が幼稚園での私の様子を書く欄があって、

親の目を盗んでそれをよく読んでいた。

家で私が悪いことをしていないか、

幼稚園で私が悪いことをしていないか、

なにか悪いことが書いていないかが不安だったのだ。

「今日も幼稚園が楽しかったと言っていました」

「今日は〇〇ちゃんが泣いているのを慰めてくれていました」

等々。

漢字は読めないだろうから、多分推測しながら読んでいたのだと思う。

毎日か毎週か忘れたけど、そんな具合に書いてあったことは覚えている。

ひと通り読んで、
あぁ良かった、何も悪いことは書かれていない、とひと安心。

そして、書いてあることの中で褒められていることをやり続けた。

友達と喧嘩をして泣いた日も
幼稚園は「楽しかった」し、

泣いている友だちや困っている友だちには
自分から声をかけた。

順番を譲る。

楽しそうに歌ったり踊ったりする。

自分は何をしたら喜んでもらえるのかを、

連絡帳を読んで知っていった。

何でそれが喜ばれるのかは知らないけど、

褒められているならきっと良いことだ、と。

もちろん全部が上手くできていたわけではないと思うけど、

家でも外でも、いつの間にか私は

「いい子」になろうとしていた。



今になって過去、特に幼少期を振り返ると、

よくもまあ色々上手く演じて切り抜けてきたものだと

自分でも感心、を通り越して引いてしまう。

はじめにも書いたが、

私にとっては当たり前のことすぎて、

まあお母さんの機嫌が悪い時は誰だってこうなるよね、くらいにしか思っていなかった。

本当は辛くて苦しかったけど、生き抜く術を身につけるためにそういう感情に蓋をするしかなかったのだ、とやっと今になって分かった。


それでも、私なんかはまだ全然マシな方だ。

母は病気でおかしくなっている時もあったけど、それは本当の姿ではないということを知っていたからだ。

普段は優しいし、そういう時は家族といい時間を過ごすこともできた。
まあ記憶としては薄いけど。

しかし世の中を見れば、

アル中、ネグレクト、虐待、DV(これはうちでも稀にあったが)等々、

もっとどうしようもない事情や悪意を持った親のもとで育つ人だっている。

自分よりも生きる希望も見失うくらいたくさん傷ついているんだと、想像するだけで胸が痛む。

それに比べたら私のこんな出来事なんて大したことないじゃん。
こんなことで傷ついたなんて言えたもんじゃないよな。

と最近まで思っていた。

だけどそれは、

傷ついて血が出ているのに、

骨折してないからこんなの怪我じゃない

と言っているようなものだった。

自分が傷ついているなら、

それは痛いと言っていいのだ。

手当が必要なのだ。

私がこんなに長々と暗い身の上話をするのは、

自分の心に蓋をしてしまっている出来事に対して、

それがどんなに些細なことであったとしても、

傷ついた、辛かったと思っていいし、言って良いんだよと、

これを読むあなたに伝えるためだ。


次回は、他人軸で生き続けた小中学時代についてになると思います。

思い出すの結構辛いんで、また時間をあけて
更新すると思いますが読んでもらえると嬉しいです。笑

ここまで読んでくれてありがとうございました。


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