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[本・レビュー] 『歴史学の思考法 東大連続講義』

真実が知りたいのなら、赤いタブレットを口にするといい。
歴史を学ぶとはそういうことだ。


 
当たり前を疑え。この世の中は欺瞞にあふれている。
偽りのベールを払拭し、この世をありのままに捉えるためには
「歴史学的思考」がものをいう。


本書の帯に
“東大生が教養として身につける、社会を生きるための歴史学的思考法。将来歴史学以外のさまざまな道にすすむであろう1・2年生に向けて、実際に行われている「大学で学ぶ、最初で最後の歴史学」オムニバス講義。
 歴史学そのものというより、「歴史学的なものの見方・考え方」を身につけてもらうための全12回。他大学の学生はもちろんのこと、歴史好きの方、ちょっと背伸びをしたい高校生、そして現代を生きるビジネスパーソンにもおすすめの、教養としての歴史学”
とあります。
 
本書を読んでも、東大には受かりません。受験にすぐに役立つようなものではありません。本書は歴史学的思考法を通じて、世の中をいかに把握すればいいかを考えるきっかけとなる入門書です。視点を広げてくれます。視点をひろげてくれますが、それはイコール「世の中をより暮らしやすくしてくれる」という単純なものではありません。却って判断に迷い、混乱を招くかもしれません。しかしながら、視点をひろげることがなければ、混乱を生じないかわりに偽りの通説に騙されたり、誤った認識に固執しつづけることになりかねません。
 
映画『マトリックス』では「世界はコンピューターによって作られた仮想現実」として設定されており、虚構の世界からの覚醒をネオに促すシーンで、モーフィアスは次のようなセリフを口にします。
 
“If you take the blue pill, the story ends, you wake up in your bed and believe whatever you want to believe.  If you take the red pill, you stay in Wonderland and I show you how deep the rabbit hole goes” 
 
訳してみるなら
 
『青いタブレットを口にすれば、物語は終わり、目覚めた後は今まで通り、偽りの世界にしがみついていればいい。赤いタブレットを口にするのなら、欺瞞にみちた世界の奥底に存在する真実の扉へ誘おう』
 
といった感じでしょうか。
 
本書を読むと、歴史を学ぶということは、この赤いタブレットを口にするような印象をもちました。歴史を学ぼうとしなければ、偽りの世界でのほほんと生きていけます。しかしながら、歴史を学び続ければ、現実は全く違ったものとして見えてくるかもしれません。
 
大学以降の『歴史』では、一方的に与えられた教科書をただひたすら覚えるような作業はなくなります。
 
近代歴史学は、19世紀前半にドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケが、厳密な史料批判をふまえた実証主義歴史学を提唱したことに始まるとされているようです。
 
義務教育として、小学校の時から社会を学んでいる私達にとって、「社会科」・「歴史」は当たり前の存在です。しかしながら、長い人類史の中で、「歴史学」は決して当たり前の存在ではなく、非常に若い学問なのです。
 
歴史学ではどのような態度が必要となるのでしょうか。
 
“作業①過去への「問い」:自らの何らかの関心にもとづいて、過去に対する問いを立てる
作業②事実の認識:関連する史料を通じて、過去の諸事実を認識(特定・確認)する
作業③事実の解釈:その諸事実を組み合わせ、その時代における意味を考える(解釈する)ことによって、歴史の部分像を描く
・・・作業②・③を繰り返す・・・
作業④歴史像の提示:歴史の部分像をつなげ、最初の問いに答えるような、より全体的な歴史像を描き、オリジナルな成果として論文・書籍などの形で発信する。
 
作業①~④と平行して必ず行うべき重要な作業が、先行研究(従来の研究)の調査・確認”
 
教科書のような、第三者がすでにお膳立てをしてくれた『事実』をそのまま鵜呑みにして信じ込むのは歴史学的な態度ではありません。また、史料批判(史料を鵜呑みにせず、一つ一つその価値を吟味し、信憑性・有効性を見極める作業)を行うことが重要です。
 
本書を読むと、私達の周りにあふれている様々な「当たり前」のものが実は全くそうではないことに気づかされます。
 
“初詣を行うという慣習は日本に元々あったものではなく、正月三が日に利益を上げようとする鉄道会社が沿線の神社と提携したことで生まれ、定着していったことが指摘されている。”
 
初詣には長い歴史があり、行かないと縁起が悪いことが起こりそうなイメージがありますが、その由来は資本主義の産物とでもいうべきもののようです。COVID-19の流行に伴い、アマビエのお札が突然導入されるのと同じようなものでしょう。
 
玄関で靴を脱いだり、学校で上履きにはきかえたり、スリッパを使うのも日本独自の風習であることが紹介されています。
 
また、1日24時間、1年365日という暦も決して当たり前のものではありません。今は海外旅行に行っても、新聞やニュースでも、各国で時差はあるにしても暦の違いを気にする必要はありませんが、もし違っていれば、世の中の認識は今と全く異なるでしょう。そして実際に、過去にはそのような状況が存在しえたわけです。
 
アナクロニズム(時代錯誤)という概念も紹介されています。”現在の考え方を過去に当てはめてしまうこと。歴史事実を無視して、現代的解釈を適用する姿勢を批判する形で用いられることが多い” となっています。
 
一例として、「宗教」が挙げられています。
 
「宗教」という言葉はreligionという西洋語に対する訳語として、幕末・維新期に初めて登場したそうです。つまりそれまで日本には「宗教」という言葉は存在しませんでした。
 
“Religionには、「宗門」や「宗旨」といったそれ以前からあったものと異なるとの感覚があったこともあり、結果的には、「宗教」というほぼ造語に等しい、しかしながら漢字の特性からして、おおよその意味が推測できる訳語が定着していくことになる。”
 
“「宗旨」という場合、神道や儒教は含まないことがほとんどなのに対し、神儒仏の三教いうように、「教」には神道も含むのが普通であった。一方、現在の宗教は、神道を宗教とする点で「宗旨」とは異なり、儒教を宗教と見做さないことが多い点で「教」とも異なる。”
 
これまで「古代の宗教」といった記載に、何の違和感も抱いていませんでしたが、日本には幕末になるまで「宗教」という言葉が存在しなかったのです。それまでにも「宗門」や「宗旨」という言葉はありましたが、それではニュアンスが異なるとわざわざ新しい言葉を作り出したわけです。そうであれば「宗教」という言葉を用いて、「宗教」という言葉が存在する以前の事象を説明しようとするのは、そもそも無理があるのではないかという議論がでてきます。
 
なんだか歴史というより哲学チックです。
 
 「時代錯誤」という概念は、公文書を評価する上でも重要なものとなります。たとえば、ある歴史的な公文書があるとして、その時代に存在しないような言葉がその文書に使用されていれば、それは後の時代に捏造されたものと判断することが可能となります。
 
 これまで何千年も歴史的事実として認識されていた事柄が、科学的技術によって捏造されたものだと判明した時、その「歴史的事実」は完全になかったものにできるのでしょうか。その事実によって成立する社会であれば、その社会は完全に崩壊してしまうのでしょうか。
 それとも、「不都合な事実」に目をつむりこれまで通りの生活が続けられるのでしょうか。
 
 一つの国の歴史を考える時も、為政者の立場を中心とするものと、民衆の立場を中心とするものでは捉え方が大きく異なります。
 
「国」というものも、何をもって「国」とするかで、認識は大きく異なります。
 
また、少数民族や社会的弱者の視点は、無視されかねません。
 
私達は無意識のうちに、私達特有の価値観や思考体系を「当たり前」のものとして認識しています。独特の思考体系で、過去の事象や異なる社会の事象を認識しようとする時、すでに正確な把握そのものが不可能なのかもしれません。
 
たとえ不可能だとしても、だからといって全く考えなくてもいいわけではありません。完全な法律など作り出し難いから、法律なんかなくても同じだというわけにはいきません。
 
「正確な把握はそもそも不可能かもしれない」という自覚をもち、少しでも客観的・合理的に判断しようとする態度が重要となります。
 
最後にもう一度『マトリックス』に戻ります。
私は歴史学を学ぶことを、赤いタブレットを口にするようなものだと述べました。
 
しかしながら、モーフィアスに悪意がない、あるいはモーフィアスは正しいという保証はどこにもありません。
 
モーフィアスは幻覚誘発剤を利用して、あなたを洗脳しようとしているのかもしれません。「当たり前」のものが果たして本当に「当たり前」なのか。「正しい」とされるものが本当に「正しい」のか。
 
事実は一体何なのか。事実と思わしき事柄が認識できたら、それをどのように評価するのがよいのか。自分のとる立場が変わることによって評価も変わることはないのか。他人に依存せず、自らの頭で考えて行かなければなりません。
 
なんだか、今までより視野が広がった気がします。
 
ハーゲンダッツ用のスプーンをもって、スーパーカップを食べた時、私の脳はそのスーパーカップを、普通の木のスプーンで食べた時のスーパーカップと同じように認識するのでしょうか。
 
私がハーゲンダッツ用のスプーンを、ハーゲンダッツ用のものと認識する前と後で、私の脳が認識するスーパーカップは同じものなのでしょうか。
 
そもそも、私がそのスーパーカップをアイスと認識する前と後(もうええわ!)
 
どうです?めんどくさいでしょう!?(そんな話なのか!?)
 

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