純粋な歴史的事実は存在しない。それでも歴史は人生に効く! [本・レビュー] 『歴史とは何か』
歴史上の事実は、純粋な形では存在しえない。
『事実そのもの』、および『事実に対する解釈』に対して二重にバイアスがかかるものである。
その限界にも関わらず、歴史を学ぶことで人は進歩できる。
過去・現在・未来と絶え間なく続く時間軸の中で『歴史』の存在意義を説く古典的名作
以前にリン・ハントさんの『なぜ歴史を学ぶか』をご紹介したのですが、E・Hカーの「歴史とは何か」の21世紀版と紹介されていたので、オリジナルにあたってみました。
約230ページ程度なのですが、思慮に富んでおり、非常に勉強になりました。
カーさんは、1892年の生まれ、中年までは外交官、その後、学界に入り、トリニティ・カレッジのフェローをされました。多くの著書によって日本ではポピュラーだそうです(お恥ずかしながら、今まで存じ上げませんでした。検索してみるとマルクスやらロシア革命などに関する著書など多数です。いずれ改めてチェックしてみるとします)。
カーさんは、1961年の1月から3月にかけて、ケンブリッジ大学で『歴史とは何か』と題する連続講演を行い、同年秋にこれを書物として出版されました。その全訳が本書となります。
カーさんは、歴史を次のように表現しています。
“歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります”
まず『歴史的事実』を選ぶ際に、事実そのまま全部取り出すことは不可能です。時代背景、天気、気候、人物、経済状況すべてを描き切ることは不可能であり、選ばれるのは全体のほんの一部に過ぎません。なおかつ、それを歴史的に重要なものとして取り出す作業において既に『重要』と考える価値観の影響を受けています。
「歴史的に重要」なものと考えられる時点で、すでに何らかの解釈や価値観の影響を受けているといえるのです。
武田信玄(通称太郎)の幼少期のエピソードは歴史となっても、その辺のどこにでもいそうな太郎君の幼少期のエピソードは歴史となりづらいのです。
このようなことを考えただけでも、『歴史的事実』として抽出されたもの、それ自体が純粋な事実ではありえないことが認識されます。
更に解釈が加わることになります。解釈においては、解釈をする人間の価値観や時代背景の影響を排除することは困難です。
つまり歴史的事実は、過去の事実として永久不滅の評価を受けるものではなく、その時代時代の評価を受けることになります。同じ『事実』として伝えられたとしても、評価は過去、現在、未来でも大きく異なり得るわけです。
事実や解釈が、様々な影響を受けて、『絶対無二の事実』となりえないからといって、歴史が無意味というわけではありません。様々な影響を受けながらも、いかに客観的たりえるか、いかに正確たりえるかを意識しながら歴史的事実を収集・解釈する必要があります。
仮説を立て、検証を行うことで、カーさんは、歴史は科学たり得るという立場をとられています。
私としては本書を読んで、これらの論理展開に異論をもちませんでした。しかしながら、こういった考えはカーさん以前にはそれほど一般的ではなかったというのは非常に興味深い点です。
〇『歴史的事実は過去に過ぎ去った絶対的な事実であり、評価は変化しえない。』
〇『歴史は神の意思に従うものであり、人知の関与しえないものである』
〇『人の世に起こりえることは予め定められており、そこに各個人が関与できることなどない』
〇『より事実に近づくために、ひとつでも多くの事実の断片を集めなければならない』
これらはいずれも、特定の時代の知識人が正しいと信じて疑わなかった『常識』ともよべる考え方だったものです。
さて、歴史の意義は過去の経験を現在に活かすことにありますが、カーさんは次のような記載をされています。
p.168 "遺伝による進化は何千年とか何百年とかを単位として測られるもので、有史以来、人間にはまだこれという生物的変化は起こっていないと考えられているのです。獲得による進歩の方は世代を単位として測ることの出来るものです。理性的存在としての人間の本質は、人間が過去の諸世代の経験を蓄積することによって自分のポテンシャルな能力を発展させて行くところにあります。現代の人間だからといって、五千年前の祖先より大きな脳髄を持っているのでもなければ、大きな先天的思考能力を持っているのでもないという話です。しかし、その後の諸世代の経験に学び、これを自分の経験のうちに統合したために、彼の思考の有効性は何倍にも増しているのです。獲得形質の遺伝というのは、生物学者の拒否するところとなっておりますが、これこそ社会的進歩の基礎をなすものなのです。歴史というのは、獲得された技術が世代から世代へと伝達されて行くことを通じての進歩ということなのです。"
獲得形質の遺伝とは、『利己的な遺伝子』で知られるリチャード・ドーキンスのいうミームに匹敵するものでしょう。
歴史を学ぶことで、過去の人々の積み重ねた経験を活かすことができるのです。先人の存在なくして、原野に生まれた赤ん坊が一代で現代社会のような高度なIT技術や建築術等を獲得することは不可能でしょう。
この「獲得された技術が世代から世代へと伝達されて行くことを通じての進歩」という考えに思いを巡らしていると、最近の日本の政治状況と合わさり一つの考え方に至りました。
それは現代がインターネットがもたらした高度なIT技術によって、政治体制の転換期にあるということです。
それはメジャーチェンジではなくマイナーチェンジです。
宗教による統治や王政、君主制等を経て、民主主義をとる国家が多くなりました。
日本も民主主義国家です。
ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』等を読むと、国家という概念は比較的新しいものであることが認識されます。
国民国家というのは、アメリカ革命やフランス革命後に普及した概念であり、その背景には活版印刷技術の進歩、識字率の向上に伴う、民衆の知的レベルの向上が影響したことが窺えます。
現代はインターネットによって国民はかつてないほど情報へのアクセスが可能となりました。インターネットの普及以前は民主主義とはいえ、各国の代表は情報のコントロールが容易で、世論やマスコミのコントロールも比較的容易だったと想像できます。
ところが、現在はスマホやパソコンをみるだけで、全世界の情報にアクセスすることが可能となります。
『失敗の本質』等を読むと、例えば第二次世界大戦は、実際の戦況と異なった日本軍の戦果が報道されていたことがわかります。
しかしながら、現代では事実と異なった報道がされても、それに矛盾する情報がネットに溢れかえっています。
政府や報道機関が、一つの状況を都合よく解釈しても、ネットには他国からの評価があふれ、それをどこからでもアクセスすることが可能です。
『コロナに対する日本モデルは世界的に優れている』といってみても、世界的にどのように評価されているかを、直接目にすることができます。
政治家の不正にしても、これまでも「おそらくあるんだろうな」とは思っても、決して報道の表舞台にあらわれることはありませんでした。
某大臣の不正(多々ありすぎて、特定困難なほど)がこれほど大々的に報道された時代がこれまでの日本にあったでしょうか。
これは現在の日本政府が過去にないほど不正を行っているからでしょうか。 その可能性は完全には否定できませんが、どちらかといえばこれまでもあったが、表に出てこなかったという方がより考えやすいのではないでしょうか。
それでも、不起訴になったり、その不正に対する判決については不公平感満載です。
私たちは現在の政治・社会のフェイズが新たな段階に来たことを認識すべきです。
SNSやブログなどを通しての、私たち国民一人一人の発信力を政府も無視できない状況になっています。
不公平だが仕方ない
残念だが、それが現実だ
不公平を公平に近づけられる機会は、これまで以上に私たちの前にひらけています。
それは他人に委ねて待っているだけでは到来しません。
私たち一人一人の態度によって、民主主義の次なるレベルへの進歩を遂げる時期に来ているのではないでしょうか。
最後は少し、個人的な意見に飛躍してしまいましたが、そんなことも含め、色々考えることができる名著でした。
ご興味があれば是非ご一読を。少しかためな文章ですが、得られるところは多いと思います。