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[本・レビュー] 君主論
『君主論』 マキアヴェリ
「マキャベリズム」とは「国家利益増進のためには、どんな手段も許される」という考え方で、「目的のためには手段を選ばない態度」を指すともいわれます。
実際に読み終えるまで、色々なところで本書の名前をみかけること、『君主論』というなんとなく立派な響きもあって、リーダーシップに関する優れた書物だと勝手に思っていました。
しかしながら、その内容は、理性や正義という観点から許容されるものではないとされ、19世紀まではまともに論じられることもなかったようです。
マキャベリについては、本書しか読んでいないため、誤解しているかもしれないのですが、本書および、本書の解説を読む限り、マキャベリは必ずしも理性や正義を否定していたわけではない印象を受けました。
マキャベリが暮らしたのは15~16世紀のイタリアでしたが
『当時のイタリア半島は、北にミラノ公国とヴェネツィア共和国、中部にフィレンツェ共和国、南にローマ教皇領とナポリ王国という五大強国が並び立っていた』ようです。
イタリア内部だけでも勢力が安定せず、加えてフランスやスペインといった諸外国からの侵略も悩みの種だったようです。
マキャベリは、征服によって君主となった新君主は、政権を安定させるために前領主の血縁を根絶やしにすべきと断言します。
これは現代の日本に生きる我々にとってはもちろん、モラルや正義を重視する当時の思想家にも容認できるものではありませんでした。
しかしながら、「やらなければやられる」「きれいごとだけで、うまくいった政権など歴史的にもほとんどみられない」というのはそれ以前のローマやギリシャなどの歴史を深く学び考察したマキャベリにとって否定できない事実だったのだと思われます。
非道とは無縁で、正義と理性のみから成立した政権を歴史的にも認めていれば、マキャベリの考えも変わっていたと考えられますが、とにかく「君主として君主国を安定させるには、きれいごとばかりでは絶対に不可能だ」という考えが根底にあったものと思われます。
そこには、「他人はとにかくあてにならない」という考え方が見え隠れします。
そういった考えを示唆する文章はいたるところにみられます。
"恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか、である。だれしもが、両方をかね備えているのが望ましいと答えよう。だが、二つをあわせもつのは、いたってむずかしい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。
(中略)
人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものなのである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない。
ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。なお恨みを買わないことと、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。これは、為政者が自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、かならずできるのである。"
"名君は、信義を守るのが自分に不利をまねくとき、あるいは約束したときの動機が、すでになくなったときは、信義を守れるものではないし、守るべきものでもない。とはいえ、この教えは、人間がすべてよい人間であれば、間違っているといえよう。しかし、人間は邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも他人に信義を守る必要はない。それに約束の不履行について、もっともらしく言いつくろう口実など、その気になれば君主はいつでも探せる。"
"君主、ことに新君主のばあいは、世間がよい人だと思うような人だと思うような事がらだけを、後生大事に守っているわけにはいかない。国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教にそむく行為をも、たびたびやらねばならないことを、あなたは知っておいてほしい。したがって、運命の風向きと事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心がまえをもつ必要がある。そして、前述のとおり、なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪にふみこんでいくことも心得ておかなければいけない。"
では、本書から、現代のリーダーが身に付けておくべき資質や、知っておくべき情報がないかというとそういうわけでもありません。
"遠い彼方から国内に禍いが生じているのを見抜けば、禍いは早くに癒る。だが余地もできずに、誰もが気づくほど大きくなるまで放置していれば、対策の打ちようがなくなる。"
これは今の政府に突きつけたい一文です。
"自分が使っている人や、側近として国の政治にたずさわるすべての人々に、重大な侮辱を加えないように心がけなければならない。"
"およそ人間の頭には三つの種類がある。第一は、自分が独力で考えをめぐらせるもの、第二は他人に考えさせて、よしあしを判断するもの、第三に、自分の考えも働かず、他人にも考えさせないもの。すなわち、第一の頭脳がもっともすぐれ、第二の頭脳がややすぐれ、第三の頭脳は役立たない。"
"全面的に運命に依存してしまう君主は、運命が変われば滅びるということ。また、自分のやり方を時勢と一致させる人は成功し、逆に、時代と自分の行き方がかみ合わない者は不幸になる"
マキャベリが生きた時代は今日の私達が生きる時代とはあまりに異なります。
「やらなければやられる」という時代でもなければ「大衆は貴族より扱いやすい」という時代でもありません。
"貴族の後押しで、民衆の意志に反して君主についた者は、まず何よりも、民心をつかむように努力しなくてはいけない。しかしこれも、民衆の保護にあたれば、むずかしくはなかろう。じっさい、人間というものは、危害を加えられると信じた人から恩恵を受けると、恩恵を与えてくれた人に、より以上の恩義を感じるものだ。そこで民衆は、自分たちが支えて君位につけた者にもまして、いっそう好意的になる。"
マキャベリの君主論は、君主がいかに安定して政権を運営できるかが重視されており、国民にとってプラスになるかマイナスになるかといった視点は皆無です。
また、力もあってあれこれいってくる貴族に比べると、民衆を満足させるのはちょろいという考えが時折みえかくれします。
現在の日本は民主主義の上、国民の識字率も高く、書物やインターネットを通じてたくさんの情報にアクセスすることが可能です。貴族に比べると明らかに扱いやすかったとされる当時の一般大衆と大きく異なるのは明らかですし、また異なっていてしかるべきです。
本書は某首相の愛読書という情報もありますが、本当のところはどうなのでしょうか。
誰かしらが『君主論が愛読書だ』と言った時には二つのことに注意すべきです。
➀果たして本当に読み終えたのか
②読み終えた上で、愛読書といっているのであれば、何をもって愛読書としているのか
です。
民主主義の、現在の日本にとって、リーダー論として他に優れた本は山ほどあるはずです。敢えて本書をあげる理由は追及されてしかるべきでしょう。
因みに本書では
『国家は傭兵や外国軍に頼ることなく、自国の軍を十分に整備することが重要』と説かれています。
私は基本的に、軍をもたずに、徴兵制や戦争と無縁で国を成立させられるのであれば、それにこしたことがないと考えますが、
抑止力の重要性や
アメリカとの関係が劇的に変化した場合等
を考慮すると、軍備についても国内で十分な検討が必要だと思われます。
しかしながら、国民に対して十分な説明もせず
自己利益の最大化を図っているとしか思えない無能な首脳陣に
戦争を行えるような軍備をどうこうしてもらいたいとは全く思えません。