仕事でのモットー
『患者さん第一』という言葉を耳にしますが、
『自分、自分以外のスタッフ、患者さん、いずれも同列に大切に』
というのが私のモットーです。
患者さんを優先しすぎるあまりに自分の心身の負担をかえりみなければ、最終的には体調を崩して仕事を続けられず、結局患者さんの不都合につながります。
患者さん第一を謳う一方、職場のスタッフにつらくあたるような人を目にすることもあります。職場のスタッフに優しくできない人間は、患者さんに優しくできるはずがないというのが私の考えです。
患者さん第一を謳っておきながら、職場スタッフにつらくあたるような人間は、結局仕事や収入が大切なだけであって、患者さん第一というより自分第一でしかないという気がしてなりません。
自分、スタッフ、患者さん。同列に大切に考える上で、私が常に意識しているのは、自分が相手の立場だったらどう思うだろうかという点です。
私が今使っている言葉は、医療に縁のない人にも理解できるものだろうか。
病院に行くだけでも不安なのに、更に不安になるような病名・検査・治療法などを伝えられたらどう思うだろうか。
一方で、自分の考え方や価値観を押し付けることなく、その人ご自身はどう思っておられるのだろうか・どういう気持でいらっしゃるのだろうかという点にも配慮する必要があります。
私がこのように考えるようになった原点はどこにあるのでしょうか。
父が消防士であまり家にいることがなかった一方、母は専業主婦で常に家にいたので、母から受けた影響は多大なものがあります。私の持つモラルについての多くにも母親の影響が色濃くでているのは間違いありません。
自分がされて嫌なことは他人にはしない。
目上の人を尊敬し、たてる。
言葉よりも態度で示す。
母が意識していたかどうかはともかく、幼い頃から母から言われてきた多くは、儒教的な考えがベースにあるように感じます。
母の教えは、理屈ではなく、『そういうものなのだから、そうありなさい』といったものでした。
母自身の言動にも矛盾が多く、『何故そうしなければならいのか、そうあるべきなのか』と感じることも少なくはありませんでしたが、そう言われ続けて育ったので、そうすることが当たり前になっていました。
ここに理屈を与える上で大きな転換点となったのが、アメリカでの留学生活と、生物学の授業で教材の一つとされたリチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』でした。
ある時アメリカ人の友人に次のような質問をされました。『自分はキリスト教徒で、神やキリスト、聖書を信じているからこそ正しい・正しくないの判断ができる。特定の宗教がないのに、どうやって正しい・正しくないが判断できるのか?』といったような趣旨の質問でした。
人間については性善説、性悪説などありますが、『利己的な遺伝子』を読んで抱くようになったのは、『優しさや平和を願う気持ちは結局、生存戦略の一つに過ぎないのではないか』という考えです。
人は自己利益を最大にしようとする傾向があります。しかしながら、誰もが自己利益を最大にしようとすると必ず衝突が生まれます。
それが暴力行為に発展すれば、喧嘩になり、戦争につながります。
お互いが争いを避け、人と協力して信頼関係を築くことで、いがみ合っている時には享受できない様々なメリットを得ることが可能となります。喧嘩や戦争で負いかねない負傷や損失を避けることにもつながります。
細かく話し始めると長くなりますが、単純化すれば、そういった性質が次世代に受け継がれ、『優しさや平和を願う気持ち』として確立されてきたのではないかというのが私の考えです。
そうであれば、『優しさや平和を願う気持ちが比較的少ない、あるいは全くない人』がいてもおかしくありませんし、状況が変われば『協調性をなくし、暴力的行為に訴える可能性がある』ような非絶対的なものにも思えてきます。
実際、『優しさや平和を願う気持ち』は絶対的なものではないと考える方がこの世の中をよりよく説明する気がしてなりません。
このような考えを持つに至り、私が考えるのは
『優しさや平和を願う気持ちは、結局は自己利益を最大化するためのまやかしでしかないのだから、無意味だし無価値だ』ということではありません。
『お互いがルールを守り、相手を尊重して信頼・協力することで結果としてお互いの自由・利益を最大化できる』という点です。
神の存在や宗教を否定するものではなく、特定の神や宗教を持たずともモラルは形成し得るし、それによって誰もが利益を得ることができるというのが私の考えです。
利他の精神という言葉を耳にします。
『利己的な遺伝子』的な観点になってみると、自分の身を犠牲にして他人を利することは、ひいては自分の子孫への評価や信頼を高めることにつながる可能性があります。
一方で、子孫や身内のいないまま、利他的な精神で命を失ってしまうと、その性質は次世代に受け継がれることはありません。
打算的に自分以外の人に優しくしようとしているわけではなく、誰もが暮らしやすい社会を目指していれば、それは間違いなく自分にとってもくらしやすい社会となるに違いありません。
『情けは人の為ならず』とは本当にうまくいったものだと思います。