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【歴史23】イラン史備忘録28(モンゴル軍台頭・テムジン・チンギスハン・ジャラールウッディーン・ホラズムシャー朝滅亡・オゴディハン・金滅亡・バトゥ・ワールシュタットの戦い・クユクハン・西方侵攻・キプチャクハン国)
イラン史の学習内容を深めていきます。 ①モンゴル高原でテムジンがナイマン族やメルキト族などのモンゴル系民族を制圧していった。1206年にモンゴル高原を統一して ンゴル帝国を成立させた。テムジンはチンギスハンと名乗った。 ②1215年に南の金を攻めて燕京を攻め落として西遼に侵攻して併合した。1218年にチンギスはホラズムシャー朝に通商を求めて使いを送ったが代官に使いは殺された。チンギスは軍を率いて中央アジアへ遠征した。 ③モンゴル大軍はホラズムシャー朝の都市を攻略をしてア
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【歴史23】イラン史備忘録27(マフムード2世・アフマドサンジャル・大スルタン・ホラズムシャー朝・クトゥブウッディーン・アトスズ・カラキタイ・スルタンシャー・テキシュ・アラーアッディーンムハンマド)
イラン史の学習内容を深めていきます。 ①1118年にムハンマドタバルは亡くなり息子のマフムード2世がスルタンとなった。王朝内では反発勢力がいたためタバルの弟のアフマドサンジャルを持ち上げて対抗した。 ②サンジャルはホラサン地方を攻め支配していた。1119年にサンジャルはマフムード2世下のセルジューク朝に軍事的圧力をかけて権威を認めさせた。 ③サンジャルは大スルタンとなってマフムード2世は数年後に亡くなった。サンジャルはセルジューク朝の権威を握った。 ガズナ朝打倒のため
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【歴史23】イラン史備忘録26(セルジューク朝実態・アタベク朝・詩・ゴルガーニー・アマーニ・オマルハイヤーム・ニザーミー・モスク・イーワーン・ジャーメモスク・アラベスク・ミニアチュール)
イラン史の学習内容を深めていきます。 ①セルジューク朝の中心地ではスルタン内紛が起こっていた。そのため中心部隊は十字軍と戦っていなかった。地方にセルジュークを名乗る小さな王朝が群立していた。 ②セルジューク朝の王族の男子はすぐ亡くなったため幼い王子だけが残される事があった。 王子を救済した有力者が後見人となった。王子の母親と結婚して義父となり権力者となったものをアタベクという。 ③セルジューク朝は3分割以降は中小のアタベクが各地で実権を持っていたのでアタベク朝とも云う