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宗教の意味と役割、科学的見地からの批判 - 書籍「人生の意味のつくり方」 試し読み版 2

シロイブックスより刊行予定の書籍「人生の意味のつくり方:幸せと自己肯定感のためのレッスン」の試し読み版です。書籍の正式リリースの前に、この試し読み版としていくつかのページを順次公開していくつもりです。

このページでは「第二章:意味は主観的な領域にある」から「古典的な宗教はこの問題をどう扱ったか」の部分を公開しています。


古典的な宗教はこの問題をどう扱ったか

科学と宗教

本書は宗教の本ではありませんが、人生の意味付けというのは、キリスト教や仏教といった古典的な宗教でも扱われるテーマです。人間は遥か昔からこうした問題について考え続けてきましたし、科学技術であれ芸術の世界であれ、何かを深く探究する上では、先人の知恵(もしくは失敗例)を参照してみるというのは必要な習慣でもあります。そのため、最終的な判断を行うのは自分自身であるとしても、西洋と東洋のそれぞれ数千年という歴史の中で蓄積されてきた知識や価値観に目を向けてみることには、一定の意味がありそうです。

宗教というと、一般的には「ありもしないものを信じる」といった否定的なイメージを持っている人も多いことでしょう。しかし、本書でも既に述べたとおり、人間が真実として扱うものには、客観的事実と主観的真理という二種類が存在します。科学が客観的事実を扱うものであるとすれば、宗教が扱うのは主観的真理のほうです。科学と宗教というふたつの領域では、「正しい」という言葉の意味が異なっていると考えることができます。

宗教がおかしなものであるとされるのは、この「主観と客観」の区別がついていない状況においてです。もう少し詳しく言えば、ここに「自分の主観と他人の主観」の区別という視点を持ち出すこともできますが、後者は突き詰めれば「考え方は人それぞれ」というごく常識的な話でしかないので、今は前者の「主観と客観」という言葉に注目することにしましょう。

キリスト教に馴染みのない人でも、神が七日間でこの世界を創ったという話は知っていますね。これは旧約聖書の「創世記」に書かれた物語です。この宇宙や地球というものがどのように成り立ったかという点については、これを科学的事実として研究している人たちがおり、こうした人たちが天地創造の物語を事実として受け入れることはありません。神が七日間でこの世界を創ったというのは、それが科学のような客観性の領域に持ち込まれた時点で、明確な誤りとなります。少なくとも、現時点で人類が理解している限りではそうです。

しかし、既に考えてきたように、物理世界というのはそもそも意味が存在しない世界です。そして宗教的な物語は、この世界に「私たちは何のために存在しているのか」という意味を与えます。人は意味のない世界で生きていくことはできません。客観的事実だけを述べれば、私たちが暮らすこの地球は、宇宙という無限に続くような虚空にぽつんと浮かぶ点であり、どのような人間も、その上で一瞬だけ発生しては消えていく微細な塵のような存在に過ぎません。これは多くの人々にとって耐えがたい世界観です。しかし、神が人間のためにこの美しい大地を創ったと言うとき、私たちは誰からも見守られることのない無意味な石ころのような存在ではなくなるし、この世で続く人間の労苦も価値のないものではなくなります。宗教の領域における「正しさ」とは、「私はこのように語られた人間という存在の意味を信じる、このように生きることに価値があると信じる」という態度のことを指しています。

宗教が指し示す価値観は、その時代のその社会の慣習や一般常識とは対立する場合もあるし、しない場合もあります。現代では科学というものが重視されているので、宗教はその全体が現代的な考え方とは相反するものだと思われていることでしょう。しかし、主観的真理という観点を正しく理解することができたとき、宗教は単なる古くさい迷信の寄せ集めではなくなります。そこには現代で合理的に生きる人々にとっても、意味のある何かが存在する可能性があるということです。

宗教を批判的に見るなら

この本を書いている私自身の立場としては、一般的な宗教をそのままに支持する姿勢は取っていません。二千年以上も続く伝統あるものでも、ここ五十年間で生まれた比較的歴史の浅いものに対してもです。理由としては、次のようなものがあります。

  • 主観の領域はあくまで各個人が主体的に追求すべきであり、伝統的な聖典や組織の権威、新たなカリスマ的存在といったものに無批判に従うことが求められてはならない

  • その社会で常識的とされる価値観と異なるものを主観の中に持つ必要があるとしても、それは全体として現実社会からの逃避であってはならない。しかし、実在する宗教組織の実態を見れば、その思想と活動は現実逃避的な面を含むことのほうが多い

  • 現代の倫理観や心理学的な知見に照らして、適切でないと思われる方針やロジックが提唱されたなら、それを考えなしに受け入れるべきではない。主観性を重視することは、人の心や社会というものが効率よく、適切に、客観的に見ても合理的に働くということと対立するものではない

「はじめに」の章でも述べたとおり、本書では「これを信じれば幸せになれます」という安直な立場を否定しています。現実の世界が複雑で難しいものであるなら、私たちはその世界を正しく認識して、適切な方法によってそれに対処する必要があるからです。そのためには「昔の人がそう言ったから」というだけの曖昧な教義を受け入れることなく、また現代のメディアで流れる情報や魅力的に見えるインフルエンサーに追従することもなく、自分自身の力で粘り強く考え続けることが必須になります。この「あなた自身の人生の探究は、あなた自身の手で行うべき仕事だ」という点は、本書の全体で強調していることであり、そのまま一般的な宗教への批判にも当てはまるものです。

それでも「宗教はデタラメだ」というのが誤った理解であるということは、ここでぜひとも確認しておきたいと思っています。それが完全なナンセンスであるのなら、いくつかの古典的宗教が数千年の時の試練に耐え抜いているという事実はどう考えるべきでしょうか。やはり、そこには文化の違いや技術の進歩といった地理的・時間的な枠を超えた、人間にとって普遍的な何かが含まれているのではないかと想像することができるはずです。

神格化を取り除けば、宗教とは何なのか

主観的真理とその実際的な意味ということを考えるとき、キリスト教よりも仏教のほうが題材として理解しやすい面があります。ここからは、キリスト教よりも数百年ほど歴史が古く、日本人にとっても馴染みのある、仏教に注目してみることにします。

元々、仏教は神様のいない宗教です。紀元前六世紀前後という時代に、釈迦という人物が得たとされているのは「正覚」、つまり「ものごとを正しく認識する」ということです。これは釈迦自身が何か神様のような超越的な存在になったという意味ではないし、ここで示される「真理」というものも、普通の人が仰天するような異世界を見ているわけではありません。社会の中で暮らす人間の多くが日常的に抱えているような心の混乱や認識の歪みというものがあって、真理を見るというのは、単にそのような障壁が取り除かれた状態を指すものです。それから千年以上ののち、中国と日本において発展した仏教の一派である禅では、悟りの内容はそのまま「平常心」と表現されるようになりました。

しかし、宗教というものには神格化が付き物です。現代で古典的な「宗教」の「教祖」とされているキリスト(ナザレのイエス)や釈迦(ゴータマ・シッダールタ)といった人たちも、彼ら自身が「教祖」になろうという意図を持って、完成品の「宗教」を興したとは考えられていません。その教義体系と宗教的権威は、主に後世の追従者たちによって徐々に形成され、普及させられたものです。

「正しく見る」人物が覚者とされた仏教においても、インドにおける釈迦の入滅(亡くなること)といった最初期の時点で、既に釈迦の人格や存在そのものを神格化する動きがあり、それから数百年して大乗仏教というものが発展してからは、如来や菩薩と呼ばれるような超越的存在のイメージも定着していきました。元々は「自分自身の力で正しく悟ろう」という現実主義的なコンセプトで始まった仏教も、禅と同じく始まりから千年以上が経過してから結実した浄土真宗などでは、「南無阿弥陀仏」の六文字によって浄土での救いが約束されるという、ほとんど正反対とも考えられるような思想の変質が起こっています。これは仏教的にはそれぞれ「自力(じりき)」と「他力(たりき)」と呼ばれる考え方です。他力の側で出てくる「南無」というのは「帰依します」という意味で、ここでは阿弥陀様という超越的な救済者にすべてを「まかせる」という点こそが、信仰の核心になっているわけです。

このような多様な宗派の発展にも、哲学・宗教にまたがる長大な思想史として見ると独特の面白みがあるのですが、そういった内容は脱線となってしまうので、話を本筋に戻しましょう。本書で考えているような人生の意味付けという課題において、仏教という思想体系の中で特に注目すべきものは、さきほど出てきた「最初のコンセプト」の中にあります。つまり、あくまでそれを自分自身の力で理性的に行うという点です。さきほど出てきた言葉を使えば、これは自力の側に相当します。

歴史的に見れば、釈迦という人は「これを信じなさい」ということを言いませんでした。実際にはその逆で、彼の基本的なスタンスは「偉くて賢そうに見える人がそう言っているからというだけで何かに盲従するのはやめて、自分自身できちんと考えなさい」というものです。

この姿勢は、最初期の仏典の中で繰り返される「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」という力強いフレーズからも確認できます。ここに「信じて従いなさい」というニュアンスは何もなく、むしろそうした追従というものがはっきりと否定の対象になっています。通常、聖典と呼ばれるような書物にはさまざまな脚色が加えられているものですが、ここに挙げた表現が含まれる「スッタニパータ」という仏典の内容は、実在した釈迦という人物の思想に対して、隔たりが比較的少ないものと考えられています。

現代までのおよそ二千五百年間という時の経過の中で、人々を引きつけることをやめなかった原初の要素は、根本的には、この釈迦自身の探究と独立の姿勢にあると考えることができます。この現代では形骸化して古びた教義のように見える内容も、少なくとも後世の人間にそれを探求させるだけのエネルギーを持たせるものがなかったのなら、そうした思索の成果が書物として残されることはなかったはずです。最初に「これこそが正しい」という主張だけがあったのなら、その内容がどれほど立派に見えたとしても、そこに発展の種子はありません。

普段あまり宗教の話題に触れない読者であれば、これまでに述べたような内容は、一般的な「宗教」のイメージとかなり離れているように感じられたと思います。つまり、宗教者とは突飛な超常現象をそのままに信じたり、単に「昔から言い伝えられているから」というだけの教えを盲目的に受け入れている人間を指すのではありません。それは表面的な形式、ある種の「お約束」でしかなく、本来指し示そうとしているものは別にあります。彼らはそれぞれの象徴的な物語の文脈において、独自の用語や概念を人生の意味付けのパーツとして用いており、その点で「無宗教」の人たちとは思想と感情の表現方法がいくらか異なるというだけのことなのです。

知識は訂正されるものである

人生の意味付けという課題に関連して、仏教への注目をもう少しだけ続けましょう。キリスト教と比較した際の仏教の特徴のひとつは、その心理学的な傾向にあります。

「怒ることはよくない」と言われるとき、これは倫理や道徳の話をしています。しかし、ここで「よい」とか「よくない」といった判断を捨てて、「怒りというのは客観的な認識を歪めるので、周りの人間の考え方や行動について正しく理解することの妨げとなるのではないか」「そうした誤りを避けるには、どのような考え方や習慣を持つことが効果的か」といった思索へと進むならどうでしょうか。

これは道徳的に「かくあるべき」という決めつけの話とは異なります。このような問いかけは、自分にとって未知のものである他者の心の内側や、本当は他人と同じくらい未知のものである自分自身の心の仕組みについて、より正確に理解しようとする試みです。つまり、純粋に心理学的な視点が出てくるわけです。

仏教は神様を基盤としておらず、仏陀=目覚めた者である釈迦という人物は、このような内的な探究について「その道を極めた人」という扱いになっています。そして、釈迦自身が何をマスターしたにせよ、人の心という未知なるものを「自分で考えて、自分で確認しなさい」と言ったことは、科学的な検証の姿勢とも対立しません。

科学の世界においては「私の理論が完全に正しい」と言うことはできず、どのような分野にも「今のところはまだ誤りが発見されていない理論」が存在するだけです。五十年や百年の研究が積み重ねられれば、この内容は当たり前に修正されていきます。心理学という分野を考えてみても、他者の振る舞いや自分の心の内側をただ見つめるということが中心だった時代と、さまざまな生理学的な測定機器や統計的な分析手法が生まれ、多数の被験者からデータを収集できるようになった時代を比較すれば、そこで発見できる内容やその信頼性には明らかな進歩が存在しているはずです。

つまり、釈迦自身が行った洞察として書物に残されている内容の中に、現代の心理学的な観点から見てあまり適切でないと思われるものがあったとしても、それは仏教というもの全体の価値を特に毀損するものではないということです。むしろ、そのような誤りは必ず見つかるはずだし、それは積極的に探し、検討を加え、訂正しなければなりません。

現代の量子力学を持ち出したとき、ニュートンの古典物理学に精密でない部分があったとしても、だからニュートンは偉くなかったとか、そこから学ぶものや利用できるものはないといったことは普通は言いません。範囲を正しく限定すれば、今の時代にも実際的に活用できる知識がそこには多く含まれているし、その発見の歴史的意義というものも薄れたりはしません。

科学と宗教というものは、一般的には正反対で相容れない分野のように思われています。しかし、健全な宗教とは何かということを考えたとき、この「既存の教義を絶対視しない」という点は第一に挙げられるものであり、これは科学者の持つ誠実さといったものと対立しないものでもあります。

組織的・伝統的宗教の矛盾と限界

宗教についての話はこの辺にしておきましょう。ここまでに述べた内容では、既存の宗教に含まれる個別の思想を解説するのではなく、もっと本質的に「真剣に人生の意味を探究しようとしている人にとって、宗教は何らかの価値を持っているのだろうか」という疑問に注目しました。特に強調したかったのは、宗教というものに対して一般的に抱かれがちな誤解を解き、先入観を抜きにしてニュートラルな見方をしてみるという点です。

簡単に振り返ると、キリスト教で使われる物語はこの世界と人間の存在をどう意味付けるかという点に関係していましたし、仏教は人の内面をしっかりと見極めようとする姿勢に特徴がありました。どちらも「この神様を信じなさい、そうすれば救われます」という安易な話ではなく、そこには人の心という複雑なものをどう理解すべきか、この世界で生きるという困難な仕事をどう扱っていけばいいのかという問いかけと、その答えに対する何らかのヒントが含まれていると考えることができます。これは本書の冒頭で批判的な目を向けた自己啓発本などとまったく同じで、安直でいいかげんな幻想のセールスが部分的には含まれているとしても、だからといってすべてのメッセージが無意味だと断定すべきではないということです。

人類が長い歴史の中で積み重ねたものを参照するとき、「真面目に論理的に考えたいのだから、宗教のような迷信は信じない」と言ってしまうのでは、そこから取りこぼすものがあまりにも大きくなってしまいます。既に述べたように、宗教を「絶対的な正しさ」として盲信するべきではありませんが、少なくとも検討対象として目を向ける価値はあるはずです。「これこそが正しい」と信じ込むことと同じく、「これには価値がない」と決めつけることも、真剣な探究という姿勢には反するからです。宗教への反発として「論理的に」ということが強調されるとき、そこには人間にとっての主観的価値の重要性という視点がすっかり欠落しているケースが少なくありません。

本書で目標としているものを「空虚さや満たされなさが解消された心の状態」だとするならば、キリスト教では「救い」、仏教では「悟り」といった言葉がそれに近いものを示唆しています。ここで、キリスト教や仏教が人生の意味をどのように定義したかということについて、聖書や仏典を引用しつつ、現代の日常生活や人間関係に結びつけて考えることもできましたが、本書ではそのような書き方をしませんでした。

書店に行けば、既存の宗教を「生き方のヒント」として現代人向けにわかりやすく落とし込んだ本がすぐに見つかりますね。しかし、こうした本はあくまで牧師先生やお坊さんといった人たちがそれぞれの公的な立場(少し意地悪な言葉を使えば、その業界の建前)に従って書いたものとなっています。「このような思想はいつでも訂正されうるし、絶対的に正しいものではない」ということは、通常は言われません。「これは私なりの正しさであって、誰であれ、自分なりの正しさを見つけられるのは自分だけなのだ」ということも言われません。

宗教が持つ価値を確認した一方で、宗教の矛盾と限界を指摘するならば、それはまさにこの点にあります。つまり、人が主観的な真理というものに対して誠実であるならば、それを組織化することは本来できないはずだということです。人の集まりという意味の組織でもそうですし、万人が共有すべき共通の解答集を編むという試みについてもそうです。

眠って夢を見続けるべきか、起き上がって現実に向き合うか

「主観」という言葉に注目してきた第二章を締めるにあたって、本書全体の重要な論点をもう一度強調しておきます。あなた自身の人生の意味付けはあなた自身の仕事であって、他の誰かがそれを保証してくれるということは決して起こらないし、それは原理的に不可能な話でもあります。本質的に、それを行えるのはあなただけです。

救いを切望している人があちこちにいる一方で、親切にも救いの手を差し伸べてしまう人がいます。それは善意に基づくものかもしれませんし、お決まりの悪意ある詐欺的な勧誘かもしれません。いずれにせよ、正しいか正しくないかに関わらず、何らかの教義をお手軽に作り上げてしまう誰かがいて、私たちは安易にもそれを信じ込んでしまいます。そうすることによって、本来はそれぞれの個人に与えられたはずであった、人生の意味の探究と構築という仕事を放棄してしまいます。

そこに別の誰かが現れて、「そんな都合のいい教義はない、やめろ、そんなものはまったく何も信じるな。早く起きろ、目を覚ませ」と大声で伝えたとします。きっとみんな嫌な顔をして、再びお布団に潜り込むのでしょう。少なくとも、夢を見ている間だけは現実世界の苦痛を忘れることができるからです。

人生の意味が主観の中にしかないとしたら、人がどのような生き方を選んだにしろ、そこに価値がないと他人が断定することはできません。どうしようと本人の自由だということになるのでしょう。特に現代のこの国では、人に干渉するということはひどく嫌われるものなので、多少なりとも分別のある大人であれば、他人の考え方の深い部分に口を挟むということはまずしません。逆に口を挟みたがる人がいたとしたら、みなさんもご存知のとおり、その人の言うことは「これこそが正しい、これを信じろ」ということだけです。「信じ込むな」「しっかりするんだ、自分で考えるんだ」と言ってくれる人はどこにもいません。結局のところ、ここで「本当にそれでいいのか」と問えるのは、その人生を生きている本人だけです。

第一章の最後で、あなたは自分自身の人生を否定するのか、それとも肯定するのかという問いかけをしましたね。夢を見続けるのか、現実の世界を生き始めるのかという点に関しても同じです。重要な問いかけは変わりません。それは「他の人たちが何を言うにしろ、あなた自身はどのように考えますか?」ということです。

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