言霊〜意識せずとも呪いとなることもある〜
幼い頃に褒められた記憶がない。
むしろ容姿を貶されたことをハッキリと覚えている。
それも他人ではなく、身内から…。
両親が離婚する前から
父の実家へはよく行っていた。
祖母は会うたびにわたしの顔を見つめては
「なんでこんなおかしな顔の子どもが産まれたのか」と
首を傾げていた。
わたしの両親はパッチリとした大きな目に
くっきりとした二重だった。
わたしはというと細目で一重。
母はわたしを「こけしみたいで可愛い」
「こけしちゃん」と呼ぶこともあった。
だが、わたしの中でこけしを
心からかわいいとは思えなかったし
祖母がわたしをまっすぐに見つめて
「この子は本当におかしな顔をして…」と
ため息をつく姿が頭から離れなかった。
「起きてるの?寝てるの?」と言うと
起きてる!と言って必至で目を見開くわたしを
母はかわいくて仕方がなかったを後に笑ったけれど
そう言われるたびにわたしは悲しくて仕方がなかった。
年子の弟はパッチリおめめに
くっきりとした二重。
母といてもすぐに母子だとわかる。
わたしは家族の誰にも似ていなくて
「あなたは橋の下で拾った子よ」という
母の悪気ない冗談を本気で信じ込むほどだった。
両親の離婚後
父方に引き取られると
親戚との交流が頻繁になった。
そして毎回、親戚に挨拶するたびに
必ず顔を貶される。
「あんたお母さんのお腹の中に
目を忘れてきたんじゃないの?」
「本当は男の子になるはずだったのに
○ん○ん忘れてきたんじゃないの?」
「弟と性別間違えて生まれたんじゃないの?」
大人たちは真正面から真剣な顔をして
わたしにこんな言葉を投げかけてくる。
なんてかわいそうな子なんだろうという感情と共に…。
わたしは鏡を見るたびに笑顔を作っては
自分だけは自分をかわいいと言ってあげようと
がんばってみたものの…
たくさんの大人たちの悪気ない言葉に打ちのめされてしまった。
思い上がってはいけない。
わたしはこんなに醜いんだ…。
みにくいアヒルの子は白鳥だったけれど
わたしはどこまでいっても、わたしでしかない。
小学2年生の頃に、はっきりと自分自身に言い聞かせた。
そして自尊心とか自己肯定感というものが
どんどん遠のいて
小学3年生か4年生の頃に
「わたしは幸せになってはいけない人間だ」と
人知れず宣言してしまうほどになった。
この時の宣言が働いたのか、大人になってから弟に
「なんで姉ちゃんはいつも悪い結果になる方を選ぶんだ?」と
言われるほど波瀾万丈な人生になったがそこは割愛する。
月日が経ち中学生になった頃だっただろうか…
親戚に会ったときの反応が変わってきた。
わたしの顔を見て心底驚いたという顔をして
「あら、目が大きくなってる!」
「よかったねぇ、目が大きくなって!」
今なら身内がみんな目が大きくてぱっちり二重なのだから
不思議はないと思うし
単に奥二重だっただけなのかも知れない。
だがその頃は何を言っているのか全く理解できなかった。
「そんなわけないじゃん。わたしは目が小さいんだから」
大人になってからも「目が大きいですね」とか
かわいいとか言われてもお世辞だとしか思えない。
それは子どもの頃に周囲の大人たちに刷り込まれた言葉と
自分自身で「わたしは〇〇なのだ」と宣言してしまったからだと思う。
何気ない言葉だったかも知れない。
その言葉が言霊としての力を持ってわたしを覆ってしまった…。
さらに言霊としての力を発揮させたのは、他でもないわたし自身なのだ。
わたしの考えはこうだ。
言葉というものは発した本人が思いもしない力を持つことがある。
まず、発する人がどんな感情を乗せるかということが一つの鍵となる。
それはどんな感情かということよりも、どれほど強い思いなのかということが重要なのではないか。
相手の精神に影響を与えるほどの強い思いが、相手に伝わり
その思いを受け手が認めて自分の中に取り込むとより大きな力を発揮することができるのではないだろうか。
ポジティブに働けばまじないとなり
ネガティブに働けはのろいとなる。
善悪関係なく思いの強さが現実を作っているのではないか。
言霊とはコトバとタマシイ。
言葉に乗せる思いが作用する。
もしかしたら受け手の感受性が強いほど
大きく作用してしまうのかも知れない。
もしくは自分の軸がしっかりしておらず
他人に合わせてしまう癖がある人ほど影響を受けてしまうのではないだろうか。
言霊の力については今後も観察していきたい。